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松尾芭蕉は古歌の名所、由緒・来歴の地を訪ねて陸奥(むつ)・北陸路を旅し、紀行文学の傑作である「おくのほそ道」を完成させた。芭蕉とその弟子の曾良(そら)が作品に書きとめた風景は近世・近代を通じて人々の風景観に影響を与え続け、今なお往事の雰囲気と遺風を伝える一体の風致景観である。
松尾芭蕉は、当地を訪れた際、古代より幾度かの盛衰を経て現前する松の姿に「武隈の松にこそ目覚むる心地はすれ」と深く感動し、「桜より松は二木を三月越し」の句を詠んだ。現在、「二木の松史跡公園」となっており、その一画には、7代目とされる樹高17mほどの松がその勇姿を今日に伝えている。
指定年月日 | 平成25年11月15日 |
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所在地 | 岩沼市二木2丁目 |
見学 | 見学自由 |
アクセス | (鉄道)JR東北本線・常磐線岩沼駅から徒歩10分 |
芭蕉はこの碑が古代の姿をそのままに現前していることに感動し、涙が落ちるばかりであった。碑は江戸時代の初めに発見され、すぐに「壺碑」と呼ばれるようになった。「壺碑」は平安時代の終わり頃から遠くみちのくにある歌枕として多くの歌に詠まれたもので、この発見は当時の文人や学者に注目され、広く人々に知られるようになった。平成10年には「多賀城碑」として国の重要文化財に指定されている。(写真:多賀城市提供)
指定年月日 | 平成26年10月6日 |
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所在地 | 多賀城市市川字田屋場 |
見学 | 見学自由 |
アクセス | (鉄道)JR東北本線国府多賀城駅から徒歩10分 |
日本遺産「政宗が育んだ“伊達”な文化」構成文化財
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芭蕉は「壺碑」のあとに当地を訪ねている。「興井」は、「わが袖は しほひにみえぬ おきの石の 人こそしらね かわくまぞなき」(二条院讃岐)など多くの歌に詠まれ、歌枕として非常に有名であった。江戸時代、仙台藩は当地を整備するとともに、手厚く保護した。現在は住宅に囲まれているが、江戸時代に「池中に奇石礧々(きせきらいらい)とする佳状愛す可し」(『奥羽観蹟聞老志』と記された情景は今も良好に残っている。(写真:多賀城市教育委員会提供)
指定年月日 | 平成26年10月6日 |
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所在地 | 多賀城市八幡2丁目 |
見学 | 見学自由 |
アクセス | (鉄道)JR仙石線多賀城駅から徒歩5分 |
日本遺産「政宗が育んだ“伊達”な文化」構成文化財
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「末の松山を訪ねた芭蕉は、「松の間々皆墓原」という光景を目の当たりにして、恋を詠んだ歌枕の地が墓原と化している現実に無常を感じている。「末の松山」は、「ちぎりきな かたみにそでを しぼりつつ すゑの松山 なみこさじとは」(清原元輔)など、多くの歌に詠まれ、みちのくを代表する歌枕として非常に有名であった。芭蕉が訪れた当時、松林が広がっていた様子をうかがえるが、現在は2本の松が残るのみである。しかし、当時からある「末の松山宝国寺(まっしょうざんほうこくじ)」の墓越しにみる松の姿は、芭蕉が無常を感じた面影を今に伝えている。(写真:多賀城市教育委員会提供)
指定年月日 | 平成26年10月6日 |
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所在地 | 多賀城市八幡2丁目 |
見学 | 見学自由 |
アクセス | (鉄道)JR仙石線多賀城駅から徒歩5分 |
日本遺産「政宗が育んだ“伊達”な文化」構成文化財
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「壺碑」「興井」「末の松山」を訪ねた芭蕉は、塩竈に到着した。「籬が島」については、「五月雨の空いささか晴れて、夕月夜幽かに、籬が島もほど近し。」と記して、塩竈の浦の夜の風情の感傷に浸っている。「籬が島」は、「わが背子を 都にやりて 塩竈の まがきの島の まつぞ恋しき」(よみ人しらず)など多くの歌に詠まれ、歌枕として有名であった。島内に鹽竈神社の末社、曲木(まがき)神社がある。(写真:塩竈市教育委員会提供)
指定年月日 | 平成26年10月6日 |
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所在地 | 塩竈市新浜町1丁目 |
見学 | 見学自由 |
アクセス | (鉄道)JR仙石線東塩釜駅から徒歩10分 |
日本遺産「政宗が育んだ“伊達”な文化」構成文化財
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「つゝじが岡」は、古くから歌枕に詠まれた名所であり、仙台を訪ねた芭蕉は、「玉田・横野・躑躅が岡(つつじがおか)はあせび咲くころなり。(中略)薬師堂・天神の御社など拝みて、その日は暮れぬ。」と記している。文中の「天神の御社」は、『曾良随行日記』に「玉田・横野を見、つゝじが岡ノ天神へ詣、木の下へ行。」とある「つゝじが岡ノ天神」(現在の榴岡天満宮)のことである。
「つゝじが岡」は、明治期以降、旧陸軍兵舎や公園整備などで住昔の大観を失っているものの、榴岡天満宮の多数の句碑やウメ・サクラなどの古木の並ぶ境内及び榴岡公園の一角は、芭蕉が訪れた当時の趣を残しているとみられる。現在、当地は、「仙台市杜の都緑の名所100選」に選ばれるなど、多くの市民に親しまれている。(写真:仙台市教育委員会提供)
指定年月日 | 平成27年3月10日 |
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所在地 | 仙台市宮城野区五輪1丁目 |
見学 | 見学自由 |
アクセス | (鉄道)JR仙石線榴ヶ岡駅から徒歩10分 |
日本遺産「政宗が育んだ“伊達”な文化」構成文化財
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芭蕉は、つゝじが岡の天神の御社(榴岡天満宮)を訪れた後、木の下の地にある薬師堂に立ち寄っている。この薬師堂は、古代の陸奥国分寺跡に伊達政宗が再興したものであるが、現在の薬師堂や仁王堂、また周辺の社寺林、金堂跡西側に立つイチョウ(推定樹齢390年)などは、芭蕉が訪れた当時の面影を今も伝えている。
古代陸奥国分寺跡の範囲は、現在、国の史跡として指定されている。また、政宗が建立した建物のうち、薬師堂は国指定有形文化財、仁王門は宮城県指定有形文化財、他の江戸時代の鐘楼や准胝観音堂(じゅんていかんのんどう)は仙台市登録文化財となっている。准胝観音堂脇には、芭蕉が仙台城下で訪ねた大淀三千風(おおよどみちかぜ)の門弟によって供養碑(仙台市指定文化財)が建立されているほか、駿河の俳人山南官鼠(やまなみかんそ)による天明2年(1728年)の芭蕉句碑(仙台市指定文化財)も残っており、芭蕉の来仙を踏まえた上での歌枕の名所として意識されていたことがわかる。当地は、芭蕉が訪れた当時の場所が限定されうる風致景観の良好な地である。
指定年月日 | 平成27年3月10日 |
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所在地 | 仙台市若林区木ノ下1丁目 |
見学 | 見学自由 |
アクセス | (鉄道)市営地下鉄東西線薬師堂駅から徒歩1分 |
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