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が後世まで「決して切るべからず」と伝えた弥陀の杉は、一度だけ切られそうになったことがあります。
それは昭和3年12月のことでした。その年の11月にの養子五十嵐江水(先代)の「9月9日付けでだるまの杉を売却したので引き渡してほしい。」という文書が当時の平沢村長に届いたことが発端です。驚いた村長は、村の主だったものたちを集め、村の大事な杉の木を守るべく伐採を阻止する対策本部を設置したのでした。12月、大雪の降った次の日の明け方ついに伐採のため人夫たちがやってきました。版木が鳴らされ、村中の人たちが集まり人夫たちとのにらみ合いの中、人夫は木の根元を切り始めたのでした。村の人たちは石を投げたり、人垣をつくったりして守りました。木にしがみついて守る者まで現れ乱闘さわぎとなったため、これではだめだと仲裁が入り一時的に伐採を中止することになったのでした。この時、村の人たちはもち米を出し合って大量の餅を突き根元の傷口に張り付けて介抱したとされています。
当時の傷跡が今も根元に残る
この問題の争点は、杉の木は五十嵐江水の所有か?村の所有か?でした。達磨堂を仮法廷として評定が開かれ、3年4ヶ月後の昭和6年4月にやっと和解が成立したのでした。その内容は、杉の木やその周辺の土地などを村が買い取るというものでした。当時の金額で2,350円、裁判費用を含めて2,700円となりこれを工面するため5町歩の畑を売却したといいます。当時のお米が1石(約150kg)で16円ですから現在の価格(米60kg=約1万2千円)とすると500万円ぐらいでしょうか。本当に村にとっては宝だったのですね。
参考文献
昭和57年蔵王町北部地区農村高齢者活動促進協議会・白石農業改良普及所編「村の生活史」
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