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平沢要害は、江戸時代に高野家の居城があったところです。現在は平沢公民館が建っていますが、その前には以下の碑文が残っています。
この館は勝岡城または臥牛館(ねうしだて)とも称し山形県史によれば応永九年(1402)伊達氏により国分河内入道が賜ったものとされている。又一説には天正十九年(1591)頃に上杉家の驍将甘糟備後守の築城した城とも伝えられるがつまびらかでない。降って慶長末に伊達家の着座高野家十五世光兼平沢の百貫文(千二百石)を賜り家中七十余を引きつれ伊具郡丸森郷より移住しこの城を中心に町割をして平沢要害を形作った。城舘の規模は本丸と二の丸を土塁で囲み南方には広く堀を巡らし家中足軽等の屋敷を区別し、ここに約百戸の市街を形成したのである。高野家は明治維新まで九代にわたり二百余年この城に居住した。禄高は版籍奉還の時に千六百五十石、家臣は四十九名、足軽二十七名であった。尚この城には寛文年暦に起った伊達騒動の時原田甲斐の孫二名を預り藩命により処刑しているが、それは十六世可兼の代のことである。
昭和五十三年三月三十一日 蔵王町教育委員会
明治ごろまでは、要害跡があったが、この地域が良質珪藻土の産地だったことから削り取られ、昔の面影はほとんどありません。しかし,その珪藻土も外国産に押され、まだ埋蔵されているにもかかわらず、まったく採掘されていません。
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