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高野倫兼(みちかね。1700~1782)は、高野家第十九代の当主です。しかし、年号が彫られてないため、この石碑がいつ建てられたものか不明です。石碑に刻まれている内容は、農民のあるべき姿を記したもので、当時の武士と農民の関係を知る上で大変貴重な資料といえます。
刻まれている文書とその訳を並べて以下に記します。
「伊達家の臣富村の領主高野倫兼君の遺訓」
「おほよそ人は孝悌のほか道なし」「孝は親によく事ふまつり悌は兄をうやまい随う事也」「先農家にありてはつづれきて蓑笠かふり露霜を犯し朝とく起て草刈ひるハ田畑たがやし夜は縄なへ」「其身を有とせず農を務め年の貢きとく納め親の心を安から志め兄を助け耕し弟の身なれハ兄の使い者と身を落とし事る外何かあらん」「物かき書を読む事なとハそもそも末の事也まして棋象戯なとはてにもとらす」「農作一すしに務るは農に有ての孝悌としるべし」
(だいたい人は「孝悌」のほかに道はない。)(「孝」は親によく仕えることであり、「悌」は兄を敬い従うことである。)(さて農家は、破れを繕った服を着て、蓑と笠をかぶり露や霜が付くくらい朝早起きして草を刈り昼は田や畑を耕し夜は縄をなう。)(自身をないものと考え農業にいそしみ、年貢をすみやかに納めて、親を安心させ兄を助けて耕し、弟だったら兄の使用人としてつかえることのほかなにがあるだろう。)(文章を書き本を読むなどはそもそもありえない事。まして囲碁将棋などは手にもとらない。)(農業一筋に務めることは、農業における「孝悌」と知るべし。)
この石碑の一部に弥陀の杉の下でだるま講を開いた産科医五十嵐(いがらしぶんすい)の言葉も刻まれています。(
については別項目参照)
水神の右隣が遺訓碑
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