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旧羽前街道の様子を紹介しましょう。今回は9月に紹介しました。ちょっと山の秋が感じられる季節でしたが,四季を通じて歩いてみたくなる街道です。
旧街道への入り口です
関所が見えてきました
道中まつりで使います
右側が旧街道保存地区
左側が町道です
分岐点に石碑があります
『文治の池』
その頃からあった池?
取材は秋でしたので
山栗が稔っていました
四方峠の頂上です
標高は388mあります
首なし地蔵のほかいろいろな石碑があります
首なし地蔵。
頭には単なる石が乗っています。
なぜ首なしなのでしょうか?
右が旧街道
左が林道でしょうか?
四方峠の反対側には大きな櫓(やぐら)が立っています。
手前には藤原氏と鎌倉幕府との戦いの記念碑が建っています。碑には以下のように記されています。
文治五年(1189)八月十日源頼朝は義経をかくまったことを理由に奥州の覇者藤原を討つべく、鎌倉軍精鋭二十八万騎を率いて攻め寄せて来た。
藤原四代泰衡は十七万騎の軍勢を各地に配置して迎撃体制を固め、伊達郡厚樫山を最前線とし西木戸太郎国衡を大将軍に配し、刈田郡根無藤辺りに城郭を構えて鎌倉軍を阻止しようとした。
然し、西木戸太郎は敗れ、敗走の途中、敵の矢に倒れた。また、泰衡の郎従等 金十郎(こんのじゅうろう)、勾頭八(こうのとうはち)、赤田二郎を大将軍とした根無藤では、四方坂に塁を築いている間に、鎌倉軍の三沢安藤四郎、飯富源太等追走して早くもここに迫ってきた。平泉軍は必死に抗戦、ここを先途と大奮戦、根無藤と四方坂塁との中間において攻めては退き、退いては攻め、攻防実に七度に及ぶ激戦を展開した。然しながら多勢に無勢、平泉軍は敗れ、金十郎討死、勾頭八、赤田二郎等三十人生捕りとなり他は平泉へと逃れていった。そして間もなく藤原は滅亡、頼朝は三年後鎌倉に幕府を開いた。この戦いを奥州合戦(蔵王町史)といい藤原末期の哀史である。
とあります。
ループから歩いて十五分ほどで頂上に着きます。車でも行けますが、ゆっくりと周辺を見ながらの方がより一層楽しめるでしょう。
四方峠の櫓から円田方面を望む。
昔、下から鎌倉軍が攻めてきた。
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