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「羽前街道」とは奥州街道「宮」(現蔵王町宮)を基点とし、永野(現蔵王町永野)-猿鼻(現蔵王町平沢花町)-四方峠-川崎(現川崎町川崎)-今宿(現川崎町今宿)-笹谷(現川崎町笹谷)-笹谷峠-山形(現山形市)に至る道路で、古くから利用されている東北横断道の一つです。笹谷峠を越えることから「笹谷街道」ともいわれています。
この街道がいつごろできたか不明ですが、川崎町今宿近辺には縄文弥生期の遺跡が発見されています。古くから人が住んでいたようですので、そのころから笹谷峠を越えた交流はあったのでしょうか。多賀城に国府がおかれた8世紀頃には、東山道が律令国家の官道として整備され、次いで秋田城が造られることにともない笹谷街道を含む奥羽山脈越えの街道が整備されたと考えられます。実際に資料として現れるのは「有耶無耶の関」、「阿古耶の松」が歌に詠まれる平安時代で、前九年の役や後三年の役の頃の話が街道沿いに伝説として残っているので、このころには、すでに重要な街道だったと考えられます。
羽前街道保存地区(蔵王町四方峠)
江戸期にはいると羽州街道(青森市油川が発端)を参勤交代で下ってきた日本海側の諸藩は、米沢藩の板谷峠越え、上山藩の金山峠越え、そしてこの笹谷峠越えを選択することとなります。当初は、板谷峠越えや笹谷越えが一般的だったようですが、金山峠の道が1656年に再整備されると、金山峠から七ヶ宿、小坂峠から桑折(現福島県桑折町)という道筋が参勤交代の道になったようです。しかし、笹谷街道が利用されなくなったということではなく、1731年の大地震で街道沿いの材木岩(現白石市小原)が崩れて通行止めになるとこの街道が使われていますし、近世中期以降の物流の増加、出羽三山詣の流行から一般の人たちの利用も盛んになっていたようです。
街道の名称は、笹谷街道、笹谷越え出羽街道、最上山形街道などといわれていましたが、明治期になって「羽前街道」と名付けられました。明治26年に山形県側、明治28年の宮城県側の改修により車馬の通行が可能になりましたが、明治15年の関山トンネルの開通、明治34年に奥羽本線が山形まで開通するとあまり使われなくなりました。
しかし、昭和56年に笹谷トンネルが開通し、仙台山形間の国道286号の交通量が増加、さらに東北横断道の中でもいち早く整備された山形自動車道の開通により羽前街道は新たなルートをたどりながら更なる変身を遂げています。
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