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荒谷城(旧宮崎城)は延文4年(1357)大崎氏の家臣笠原重廣がこの地に封ぜられ,延文年中に築城し,以来230年余九代隆親・十代隆重まで宮崎を支配しました。
宮崎城(荒谷城)跡
大崎氏は豊臣秀吉による小田原北条氏攻め(天正17年(1589))に不参し,秀吉の奥羽仕置により所領は没収となり,秀吉家臣の木村吉清・清久親子の支配となりました。しかし,苛政であっため,大崎・葛西一揆が起き,秀吉の命を受けた伊達政宗が平定し,宮崎は伊達家が支配しました。
そして,宮崎城は伊達家臣である牧野大蔵盛仲・茂仲の50年余の支配後,石母田家6代長門永頼が承応元年(1652)に伊達政宗より賜りました。
(石母田家の初代信景は甲州源氏武田氏より出でて高祖信景伊達郡西根郷石母田邑(現在の福島県伊達郡国見町石母田)にあり石母田を姓としました。伊達朝宗文治の役の功により伊達へ下向の折,初めて幕下に属し伊達家御一家となりました。)
伊達藩祖伊達政宗から始まる新田開発は水源確保から進められました。河川に堰を設け,地形に合わせて水路を開削するので,潜穴(隧道)が多く見られるのが特徴です。
また,藩の財政制度は俸禄制(給与制)をとらず知行制(給地制)を実施し,与えた土地を開墾させる仕組みで新田開発を推し進めました。
加えて,藩は買米制を採用し領内の米を藩が買い取り,江戸へ売っていました。前払いで買い取るなど,農民にとって有益な部分もあったため,この制度も新田開発を推し進める要因となりました。
石母田家6代長門永頼の時代(伊達藩2代義山公忠宗の時代)は新田開発が奨励され,この下で美しい城下と広大なる田園のある近世城下として発展をとげました。
蝉堰の開削は,永頼が,荒谷城(宮崎城)から新館(加美町宮崎支所付近)へ移転の際に新館の防御用水,外堀(土手川)の用水,新田開発等を図るために,万治2年(1659)から寛文9年(1669)にかけて開削を行いました。
宮崎地域には野谷地が多く,宮崎城陥落後の残党や宮崎鉱山の衰退に伴う帰農者の生活の安定を図る意味でも開墾を進めなければなりませんでした。
しかし,かんがい用水を引くには大の原(台の原)という丘陵を越えなければならず,この工事は並々ならぬ苦労と犠牲があり,十年の歳月をかけて完成するに至りました。
御外堀(土手川)
大の原
完成後も隧道が陥没したり,鳴瀬川の河床低下により取水不能になったりと困難がありましたが,その度に復旧が行われてきました。そして,昭和47年(1972年)には,蝉堰の廃止計画も挙がりましたが「蝉堰を守る会」による存続運動の請願等により歴史ある蝉堰は残されることとなりました。
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