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掲載日:2023年3月29日

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蝉堰水物語「民話」

民話の舞台は,奥羽山脈の麓より小野田と宮崎の境界を東へ大崎耕土の一角に突き出た小高い舌状台地,大の原(台の原)といい,その突端に縁切地蔵尊が祀られています。古来霊験あらたかな仏様として願掛けに参詣人が訪れます。

大の原と呼ばれる舌状台地

大の原(台の原)

海老田新蔵人と佐藤与惣兵衛出雲による開拓

承応元年(1652),岩ヶ崎より宮崎に移封された石母田家六代永頼は,この荒野大谷地を開拓するよう命ぜられました。永頼は海老田新蔵人良安(えびだしんくろうどよしやす)を頭梁とし,佐藤与惣兵衛出雲(さとうよそうべえいずも)を技師として開拓の案を練りました。

一番の難題は,いかにして六十メートルの台地「大の原」を越すかということでした。当時の測量技術は限られていましたが,それでも周囲の地形の変化による錯覚をなくすため,暗夜に灯を点じた提灯を予定の線に一列に並ばせ,離れた場所に櫓を組み立て,櫓の上に竹を割って水を入れ水平器とし,そこより提灯の列の水平を目測していました。

現在も加美町に「矢倉」という地名が残っているのは,このように「櫓(やぐら)」を組んで提灯での測量をしたことによるといわれています。

櫓を組んで提灯で測量する様子を示した絵図

掘堰に際し,村の人々は喜び勇んで出役しました。苦しい労務に不平を漏らす者,逃げ出す者も出ました。しかし,一方には励ましの声も一層強くなり,工事は着々と進みました。堰の掘削は九キロに達しました。八年の歳月を経て,いよいよ上水の試験をする日が来ました。水は勢いよく隧道に流れ入りました。しかし,大の原の登り口まで来ると止まってしまいました。折角苦心した工事も水泡か,事ここに至っては策も力も尽きました。

人柱の決意

大の原越えの策が尽き,悩んだ末,新蔵人は「人柱を立てて神威を乞い、皆を励まさねばならない」と言いました。重臣らはこれに同意し,人柱を立てて神に生きた人間の身を捧げることに一決しました。新蔵人は「自分が人柱に立つ」ことを語り,一室にこもって斎戒沐浴断食の行につきました。このことが村の人たちに次から次へと伝わり村人たちの感激は一通りではありませんでした。

さて,海老田新蔵人には喜七郎という十三歳の子供がおり,喜七郎は父の決心を聞いて驚きました。父が数年にわたる苦心の工事の成就を見ずしてこの世を去るとは情けない。身代わりとなるのは自身であると固く心に決め,「自分が人柱になる」と父に願い出ました。新蔵人は堅い決心と深い真心を込めてひたすらに許しを願う喜七郎の誠心と孝心に心を動かされ請いを許しました。

喜七郎は輿(箱)に入り,地中に埋められました。土の中からは「南無阿弥陀仏,南無阿弥陀仏」と一心不乱に読経する声が三日三晩続きましたが,やがて,細りに細って聞こえなくなりました。尊い人柱に立った少年の魂は昇天しました。村人や家中たちはこの地に一字の堂を建て,台崎地蔵尊として祀りました。

決死の再工事

それから村人たちは再び工事に着手しました。新蔵人はもちろん,家中たちも町人百姓も休まず働きました。朝に夕に地蔵尊を拝んでは工事を急ぎました。そして難工事の堰堀も成就し,今度は前よりもたくさんの人の立会で閘門よりの通水式が行われました。この時はあいにく水涸(か)れ時でまた大の原頂上にきてそれを越す水勢ではありませんでした。集まった人は皆がっかりしました。しかし,今度は喜七郎様御霊のご加護のあることを信じ,照り続く青空をにらみながらも地蔵様を念じていました。すると,不思議と地蔵様の上に重い雲が立ち込めてきたかと思った瞬間,空が二つに割れてものすごい電光と大地が裂けんばかりの大音とともに篠つく大雨となりました。奇妙な光ものが次々と続いて堰の上を転んでいくではありませんか。それを見て皆は,恐れおののいて地にひれ伏したのでした。やがて恐る恐る頭をあげて堰を見下ろすと,水が満々として怒涛のように流れていました。「水が越えた!水は越えた!地蔵様や!地蔵様や!」と侍も百姓も共に泣いて喜びました。

こうして水も流れるようになり,300ヘクタールの開田の基礎が出来上がりました。それからはこの地を誰いうことなく「天光沢(てんこうざわ),天光沢」と称え,今なおその地名を残しています。

二人の功労者と縁切地蔵尊

第一功労者海老田新蔵人の「田」の字は新田開発の功績から賜ったものです。海第二功労者佐藤与惣兵衛出雲は下町に五軒屋敷を賜り,新宮崎の初代肝入検断(役人)に登用されました。新蔵人の墓は石母田家菩提寺の福現寺(現洞雲寺)の境内にあり,玄菴了通信士宝永元年六月二日没海老田新蔵人と刻され,一生をかけた堰と我が子の眠る地蔵尊様のある台崎に向かって建てられています。

海老田新蔵人の墓(左)と佐藤出雲の墓(右)の写真

村の人々は新蔵人父子に対する追慕と感謝の念から,贅沢を遠慮し農事に奨励して地蔵様の恩に報いねばならないとして「遠慮地蔵」と申し上げました。また,結婚前の若いうちに人柱に立って犠牲となった喜七郎少年の前を堂々婚礼の行列が通れば,罰が当たって縁が切れるとのことから「縁切地蔵」とも言われました。その後は専ら病気や一切の悩みから縁が切れて幸福が来るようにと祈願されるようになり,年々盛大に供養祭典が行われています。

台崎縁切地蔵尊の写真

喜七郎の眠る台崎縁切地蔵尊

蝉堰周辺の地図

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北部地方振興事務所 農業農村整備部計画調整班

大崎市古川旭四丁目1番1号
大崎合同庁舎4階東側

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