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中山宿の成立は,寛永時代(1630年代)に居住者が募集され,新田開発の開始,中山住の百姓の増加,そして,輸送に携わる人馬の充足という流れと考えられるので正保の頃(1644~47)に誕生したものと考えられています。
中山の穴堰掛かりの耕作面積の推移は下表のようになっており,穴堰の整備により格段に耕作面積が広がっていったことがわかります。
年代 | 耕作面積 |
---|---|
1640年 | 約130a |
1647年 | 南原穴堰完成 |
1674年 | 約300a |
1685年 | 約900a |
1762年 | 約1500a |
1970年 | 約1600a |
やはり、穴堰からの取水による新田開発の威力は大きなものであったのでしょう。
昭和50年には集落の個人宅から文化・文政年間頃(1805~1830)に作成されたであろう南原の絵図面が発見されました。その絵図面は山林,原野,道路,田畑,集落などが描かれ,田畑と民家には所有者名が記入されており,南原穴堰の「取水口」,「穴口(穴堰入口)」,「穴尻(穴堰出口)」の位置が明記されているほか,穴堰の水路が2本に分かれて南原の水田に導水されている様子がはっきりと示されているとのことです。このことからすると,少なくとも絵図面の作られた頃から現在まで穴堰及び水路の分水位置が変わることなく南原の水田を潤してきたということがわかります。
南原の絵図面(南原穴堰水利組合『南原穴堰』より抜粋。)
羽前街道の道端,山神社登り口にあった検断屋敷前に「遊佐大神」の碑が建立されています。
この碑は,中山宿の創立と新田開発に尽くした遊佐家代々の先祖に対する報恩の念を表すとともに,第七代平左衛門宣次による穴堰掘削をはじめとする中山開発に精魂を傾けたその徳望に対して,中山の住民が時の大肝入,遊佐甚之丞信孝に願い出て建立したと伝えられています。甚之丞信孝は鳴子湯本屋敷の遊佐勘左衛門の五男として生まれ,関守遊佐家の養子となり文化10年(1813),第17代関守の役につき肝入,大肝入などの要職についた人物です。信孝は中山の住民が平左衛門宣次をはじめ代々の関守遊佐家の恩義を神のように尊崇する心に強く感動し,自ら願い出て大肝入就任27年目に当たる嘉永6年(1853),遊佐大神として祀ったもので,宣次の穴堰工事からおよそ200年後のことです。
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