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明治14年(1881年)6月11日,明治天皇の東北・北海道巡幸が決定され,宮城県に通知されたことから,宮城県は「御巡幸御用掛事務所」を設置し,準備に当たった。
7月4日,御巡幸御用掛は,「巡幸関係書類が急増したため,他課から書籍箱を借りて収納している。他課からは書籍箱返却の督促もあり,このままでは一ヵ所にまとめて永く保存することはできない。」として,巡幸書類を整理・保存するための「箪笥(たんす)弐(二)箇」を新調してよいか,県令松平正直に伺いをたてている。内務省や宮内省,関係諸郡,他県等とのやりとりの多くは文書で行われたため,日に日に増える文書の整理・保存に苦労していた様子が窺える。(ある御用掛は,天皇の随行員への書状を誤って開封してしまい,進退伺を提出している。)しかし,県令松平は「新規製造ハ見合スベシ・・・出金ノ道ナケレバナリ。」(予算がないので許可できない)と回答している。
巡幸終了後の9月2日,県庶務課は,御巡幸御用掛事務所の閉鎖に伴い,庶務課記録係が巡幸関係書類を引継ぎ,保管することを県令松平に報告している。結果,巡幸関係書類は,庶務課関係(1~4巻),勧業課関係(5巻),土木課関係(6巻),会計課関係(7巻),警察関係(8巻),野蒜代巡関係(9巻),内務卿進達関係(10巻),奏状関係(11・12巻)に分冊して整理され,全12冊が現在まで保存されている。
明治19年(1886年)4月,宮城県は「文書編輯(へんしゅう)保存手続」(現在の文書規程)を定めた。県政の初期から公文書の重要性を認識し,少ない予算の中で整理・保存に努めてきた結果,多くの公文書が残された。そして近年,「電子文書」が登場し,新たな対応が求められている。公文書の整理・保存に対する悩みは尽きず,これからも工夫と試みは続く。
明治時代前半,明治天皇は,巡幸の際に宮城県を二度訪れました。
最初は,明治9年(1876年)の東北巡幸。明治天皇一行は,6月22日から7月3日にかけて宮城県に滞在し,県民は各地で盛大に歓迎しました。その2ヵ月前―。4月24日,東北巡幸実施の太政官布告が宮城県に出されました。宮城県にとって初めてのことであり,天皇を迎えるノウハウなど当然ありません。「何を,どのように準備すればよいのか・・・?」。内務省から『心得方』(巡幸の準備に関する注意点等)が通知されましたが,すべてを網羅していたわけではなく,その後次々と通達が出されました。到着予定日が刻々と迫る中,県職員と沿道の人々は,問題をひとつひとつ解決しながら歓迎態勢を整えていきました。
続いて,明治14年(1881年)の東北・北海道巡幸。北海道へ向かう途中,8月10日から16日にかけて宮城県に滞在しました。今回は通過のみであったにもかかわらず,県令松平正直が自ら各地を巡回するなど,前回にも増して念入りに準備を行い,県民も様々なものを天覧に供しました。
今回の展示では,内務省・宮内省等との往復文書や県内各地への布達等から,「慌ただしい歓迎の舞台裏」を眺めるとともに,「明治天皇の松島・塩竈観光」「政府高官による県内視察」「各地の歓迎エピソード」等を紹介します。
配架番号 | 資料名 | 配架番号 | 資料名 |
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M9-129 | 奥羽地方巡幸実施の件 | M14-83 | 御巡幸供奉人名 |
M9-200 | 心得方 | M14-83 | 御巡幸供奉人名,輦(れん)路(ろ)里程御休泊割 |
M9-201 | 県職員自宅清掃の件 | M14-88 | 白石行在所図面 |
M9-199 | 県内の史跡調査の件 | M14-89 | 西洋品使用禁止の件 |
M9-129 | 奉迎心得 | M14-87 | 捕魚天覧の件 |
M9-200 | 行幸之節士民蹲踞(そんきょ)之義ニ付伺 | M14-83 | 御巡幸ニ付沿道地方官心得書 |
M9-199 | 沿道の景観整備の件 | M14-90 | 警察官心得 |
M9-199 | 仙台における視察場所及び順序の件報告 | M14-95 | 御用状破封ニ付進退伺 |
M18-18 | 行(あん)在所(ざいしょ)「旅館梅林」 | M14-88 | 多田川氾濫状況の報告 |
M9-201 | 塩竈神社・志波彦神社清掃の件 | M14-87 | 花火打上許可願の件 |
M9-202 | 不決之条々取調書 | M14-95 | 巡幸書類収納たんす新調伺 |
天覧騎射(明治9年)[桜岡公園]
当館では,管理している公文書や絵図面の内容調査を進めています。「内容調査」とは,資料の内容を確認し,目録を作成するものです。同時に,資料の修復(破れた部分の裏打ちや綴じなおし,ホチキス針の除去など)や個人情報の有無の確認も行っており,資料を管理・利用する上でたいへん重要な作業となっています。現在,専門調査員がこの作業に当たっており,平成18年度は約6,000冊の内容調査を行いました。
今後も,皆さまにできるかぎり広く,長く,資料をご利用いただくために,内容調査を進めていきたいと考えております。
公文書館文書管理調査票
平成19年6月7日(木曜日),東北大学文学部日本史研究室(近現代史専攻)の3・4年生及び大学院生24名が,ゼミ活動の一環として当館を見学に訪れました。当館職員が,概要及び閲覧室の利用方法,公文書の保存・取扱いなどについて説明を行った後,普段は立ち入ることのできない書庫を案内しました。学生の皆さんからは,「○○に関係する資料はあるか?」「保存のために何か特別なことをしているのか?」「非公開となっいる資料にはどのようなことが書かれているのか?」など,多くの質問が出されました。
今後も普及活動の一環として見学者の受入れを行いますので,お気軽に当館までご連絡ください。
仙台の観光スポットのひとつである「伊達政宗騎馬像」。現在,青葉城天守台にある騎馬像は“2代目”で,“初代”は,上半身しか残っていませんが,仙台市博物館にあります。
昭和8年(1933年),伊達政宗の300回忌記念事業として,銅像の製作が計画されました。製作者は柴田町出身の彫刻家小室(こむろ)達(とおる)。昭和10年(1935年)に“初代”が完成し,天守台に設置された際,感動の拍手が鳴りやまなかったと言います。しかし,“初代”は,完成後わずか数年で,戦争という歴史の波に飲みこまれることになるのです。
昭和13年(1938年),政府は,ゴミ箱から電車部品にいたるまで,鉄製・銅製の「回収ノ見込アル品目」の調査を各道府県に命じました。(人々に疑念を抱かせないため,秘密裡に行われました。)さらに,昭和16年(1941年),「金属回収令」が出され,鍋・釜などの家庭用品,橋の欄干や鉄柵など,あらゆる金属製品が回収され,塩竈から釜石の製鉄所へ送られました。そして,この時,“初代”も回収され,塩竈に送られました。その結果,上半身を残し,“初代”は失われてしまったわけです。
この後,“初代”の鋳型(原型)が発見され,昭和39年(1964年)に“2代目”が完成し,現在にいたっています。
伊達政宗騎馬像
鉄製銅製工作物調査の件
国立公文書館で開かれた「公文書館専門職員養成課程」(前期;9月3日~14日,後期;10月22日~11月2日)に参加しました。講義内容は,館の運営に深く関わるものから,専門的な(難解な?)ものまで多岐に渡り,一流の講師陣から多くのものを吸収することができました。公文書館の業務は様々ですが,「何を残し,いかに長く保存するか」ということが最も重要かつ基本となります。この点において,評価・選別や資料保存の講義は,たいへん参考になる内容でした。また,全国から集まった受講生と交流を深めることで,役立つ情報をたくさん得ることができました。当館は開館して7年目を迎えました。研修で得たものを,現状の改善と今後の方向性の検討に活かしていきたいと思います。[受講者;森哲也]
関係機関から寄贈された図書(一部)をご紹介します。
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