ここから本文です。
「起業県債発行之議ヲ県会ニ付セラレサルヲ請フノ嘆願書」 [M15-0101]
明治14年(1881年),県は野蒜港への輸送路整備を目的とする六大工事計画に着手し,その工費80万円を「県債」によって集めようと考えた。当時水陸運輸の整備が急務となっていたが,地方のあらゆる事業を国庫に頼ることはできず,かと言って地方税にも限度があった。そこで同15年1月,県会議長増田繁幸が中心となり起業県債の発行を建議したのである。ところが,この時不景気の兆候が見え始めていたこともあり,県債計画が明らかになるとその是非論が沸き起こった。そして同年4月,大立目謙吾ら仙台区の住民10名が連名で県令松平正直に提出したものが,「起業県債発行之議ヲ県会ニ付セラレサルヲ請フノ嘆願書」である。
この嘆願書では,財政制度が進んでいるイギリスの蔵相(後に首相)グラッドストンや経済学者アダム・スミスらが公債に否定的な見解を述べていることを指摘し,さらに“県債の六害”をあげて県債に反対している。“県債の六害”とは,1六大工事は急務ではない 2県債の償還に20年以上を要するが,その間に凶作や事変があるかもしれない 3県域の変更があった場合,後から宮城県に編入された者が承服しない 4米価が下がり,農民が困窮している 5地方税やその他の出費が増えている 6県債発行は,県会の権限を超えている という内容であった。そして,県債発行は,「我邦未曾有之事」で,県民の多くはよく理解していない。そのような県民を20年に渡って「負債者」とするのは忍びないとして,この議案を県会にかけないよう県令松平に訴えている。この後,松平県令は県民の長期に渡る負担を不安視したためか,県会にかけないことを決断し,日本初となる県債発行は実施されなかった。
日本における近代的な地方財政制度は,同21年(1888年)の市制・町村制の導入に始まるとされる。全国に先駆けて進められた県債発行計画は,県民それぞれの「富県」への思いが現れた出来事であったと言えよう。
野蒜築港計画。今から130年ほど前,宮城で進められた一大国家プロジェクトです。このプロジェクトが成功していれば,宮城の姿は大きく変わっていたかもしれません。
明治11年(1878年),内務卿大久保利通の建議により,野蒜築港計画がスタートします。これは,野蒜(現在の東松島市野蒜)に港を作り,運河を開削して北上川と阿武隈川の輸送物資を野蒜に集め,宮城を「日本第一の財府の地」にしようという壮大な計画でした。一方,同年に宮城県令として着任した松平正直は,宮城の産業振興には陸上交通路の整備が不可欠と考え,野蒜築港との関わりの中で街道等の整備を進めていくことになります。明治15年(1882年),野蒜築港第一期工事がほぼ終了し,宮城と山形を結ぶ作並新道(現在の国道48号)も開通しました。しかしこの後,野蒜築港をめぐる情勢は大きく変化し,街道・運河の整備にも様々な影響を及ぼしていきます。
今回の展示では,街道・運河の整備,近県との関係を含めた大きな視点で野蒜築港を眺めるとともに,「富県」に向けた人々の動きや野蒜築港がもたらしたものについて振り返ります。
年代 | 資料名 | 年代 | 資料名 |
---|---|---|---|
明治6年 | 陸羽近縣地方へ御下金之儀ニ付申上写 | 明治16年 | 野蒜市街地計画方之義ニ付伺 |
明治11年 | 宮城ヨリ山形ニ達スル新道開鑿費御下渡之儀ニ付伺 | 明治19年 | 女川築港之儀ニ付建議 |
明治13年 | 宮城郡蒲生村ヨリ仙台区迄木道敷設願ニ付副申 | 明治11年 | 築港着手ニ付民有地買収之儀ニ付伺 |
明治13年 | 宮城県下野蒜港近傍官地拝借願 | 明治10年代 | 桃生郡野蒜村運河線路図 |
明治14年 | 内務卿松方正義の演説 | 明治17年 | 内務省土木局長より県令宛の電報 |
明治13年 | 火薬暴発事故処理に付き御礼 | 明治16年? | 臨時土功数村連合会議案説明書下書 |
明治15年 | 市街地払下競売の延期を伝える電報 | 明治17年 | 勤務日誌 |
明治16年 | 市街地払下競売中止公告及び借受人心得 | 明治17年? | ダイナマイトの使用と岩石破砕用電気点火機之図 |
明治13年 | 陸前国桃生郡野蒜市街地区画番地割之図 | 明治13年 | 県庁等野蒜移転計画 |
明治15年 | 起業県債発行之議ヲ県会ニ付セラレサルヲ請フノ嘆願書 | 明治13年 | 簿冊編綴用美濃紙表紙・罫紙送付依頼書 |
宮城県公文書館企画展
「野蒜築港再発見 ーみやぎ近代化の礎ー」
11月26日(日曜日),東北歴史博物館において,『土木遺産シンポジウム』が開催されました。((社)土木学会東北支部「土木遺産シンポジウム実行委員会」主催)“東北の土木遺産を見る・知る・楽しむ”をテーマに,パネルディスカッションなどが行われ,研究者や技術者,そして多くの“土木遺産ファン”がつめかけました。当館は「ポスターセッション」に参加し,現在開催している企画展「野蒜築港再発見―みやぎ近代化の礎―」のポスターと貞山運河に関わる絵図面(「陸前国宮城郡荒浜地籍絵図」)を展示しました。ポスターセッションには15の個人・団体が集まり,見学者との簡単な質疑応答を行いました。野蒜築港や貞山運河に関心を持っている人も多く,足を止めて絵図面に見入っていました。また「絵図面はいつ頃作成されたものか?」「公文書館はどこにあるのか?」といった質問も出されました。
野蒜築港について,新たに土木建築の視点から考えることができ,また公文書館のPRという点でも意義あるものとなりました。これからも公文書館の普及活動の一環として,このような催しに積極的に参加してまいります。
野蒜築港計画の一環として北上川と北上運河の分岐点(石巻市水押)に建設された閘門で,この時内務省土木局長だった石井省一郎にちなみ「石井閘門」と名付けられました。内務省御雇技師ファン・ドールンが設計し,明治11年(1878年)10月に着工,同13年7月に完成しました。北上川と北上運河には水位差があるため,船は,一度,石井閘門の閘室に入り,進行方向の水位に調節してから閘門を通過しました。(閘門式運河としてはパナマ運河が有名です。)
石井閘門には常時二人の開閉人がおり,日々の船の運行を調べて県の土木課に報告していました。「石井野蒜閘門通船調」(同21~23年)には,運河を航行する船には,高瀬船や平田船のほかに小蒸気船も見られ,積荷には,米や塩,酒,薪,小麦,煙草などのほかに,砂糖,石油,古着などもあり,運河の改修工事に人足を出していた集治監の塩釜出張所に届けられたと思われる「集治監荷物」の記録も見られます。このように,北上運河の玄関口として,多くの人々に利用された石井閘門ですが,同23年(1890年)に東北本線が一関まで開通したことに伴い,需要は大きく減少しました。
建設から120年を過ぎた現在でも煉瓦造りや石積みはほぼ原型のまま保存されており,しかも航行が可能です。平成14年(2002年),当時の技術水準の高さを伝える貴重な近代土木遺産として,国の重要文化財に指定されました。
10月7日(金曜日),東北大学附属図書館の職員の皆さんが当館を見学に訪れました。当館職員が閲覧室の利用方法や公文書の保存・取扱いについて説明を行った後,書庫を案内しました。皆さんから様々な質問が出され,資料の管理等について情報を交換することができました。
宮城県公文書館では随時見学の受入れを行っておりますので,お気軽に当館までご連絡ください。
関係機関から寄贈された資料の一部をご紹介します。
宮城県公文書館
郵便番号:983-0851 宮城県仙台市宮城野区榴ヶ岡5
電話番号:022-791-9333
お問い合わせ先
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください
重要なお知らせ
こちらのページも読まれています
同じカテゴリから探す