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「県甲第百一号達」「獲狼兒候ニ付御届」 [M10-0086][M11-0094]
明治初期,県内では,家畜がオオカミに襲われる事件が多発していた。仙台の実沢付近でも,たびたび人や馬が襲われたという。そこで,明治10年(1877年)7月,県は「オオカミ駆除令」(県甲第百一号達)を発した。駆除令では,「最近,栗原郡など山間部の村々で,馬がオオカミに襲われる事件が増えている。人間にも被害が及びかねないので,各村々で方策を考えて“撲殺”すべし。」と命じている。あわせて,駆除した場合,雌一頭につき7円50銭,雄一頭につき7円,兒(仔)一頭につき2円を“手当金”として支給するとした。そして,実際に,栗原郡稲屋敷村(現栗原市栗駒),加美郡小野田村(現加美町)などで,オオカミ捕獲が報告されている。
明治12年(1879年)4月,稲屋敷村の菅原熊治ら4名が,郡長を介して県に提出した報告書には,「山で草刈りの最中,5頭の仔オオカミに遭遇し,その内2頭を鎌などで殴打して捕獲した。そこに親と思われる2頭のオオカミが現れ,襲われたがなんとか追い払った。その後,仲間3名とともに銃を持って山へ行き,捕獲した仔オオカミを“おとり”にして,他のオオカミをおびき出し,さらに3頭の仔オオカミを撃ち殺した。」など,捕獲した状況が詳細に記されている。この後,報告を受けた郡長は,捕獲された動物がオオカミであることを検視(確認)した上で,県に報告した。その結果,菅原らは,駆除令に定められた手当金を得ている。
ニホンオオカミは,明治43年(1910年)に福井県で捕獲されて以降,確たる目撃例がなく,絶滅したと見られている。ジステンパーなどの伝染病が主原因とされているが,生活のためとはいえ,人間が絶滅に手を貸したことは言うまでもない。
※開催場所;県庁18階 県政広報展示室
明治5年(1872年),学制が公布され,近代日本の小学校教育が始まりました。そして,同13年(1880年),改正教育令が公布されると,国家主導で教育制度の整備が進められました。
改正教育令では,小学校は,初等科(3年)・中等科(3年)・高等科(2年)に区分され,初等科の3年間を義務教育と定めました。各科の修了時には卒業試験があり,合格点に満たない者は卒業(進級)できませんでした。一方,師範学校(教員養成学校)を卒業した者のほか,県が実施する採用試験に合格し,教員免許状を取得した教員は「訓導」と呼ばれました。採用の際には,学力だけでなく,品行や志望動機なども審査され,教員免許状には有効期限(5年間)がありました。
この後,同19年(1886年)に学校令が,同23年(1890年)に教育勅語が相次いで公布され,近代日本の教育制度が確立しました。
今回の展示では,教育令期(明治12~19年)を中心に,生徒心得や卒業試験問題,教員免許制度など,当時の小学校教育の様子を伝える公文書等を紹介しています。
年代 | 資料名 | 年代 | 資料名 |
---|---|---|---|
明治12年 | 郡山小学校設立伺 | 明治16年 | 教師心得 |
明治13年 | 日課時間表 | 明治17年 | 教員研修(授業演習会) |
明治12年 | 李埣小学校建築図面 | 明治15年 | 宮城県小学試験法 |
明治15年 | 宮城県小学校教則 | 明治17年 | 遠田郡中等全科試験問題 |
明治16年 | 生徒心得 | 明治14年 | 卒業証書様式 |
明治16年 | 生徒罰則 | 明治15年 | 小学校教員免許授与法 |
明治18年 | 麻疹病流行による休校届 | 明治15年 | 小学校教員免許状様式 |
明治9年 | 小学校標旗 | 明治16年 | 教員の採用基準に関する通達 |
明治13年 | 小学校教員数調 | 明治38年 | 宮城郡根白石村地図 |
宮城県公文書館所蔵資料展 「明治時代の小学生と先生」
平成19年2月8日(木曜日),公文書等の保存に対する意識を高めるとともに,散逸防止,適正な管理・利用に関する知識の普及を図ることを目的に,市町村の文書管理担当職員を対象とした研修会を実施しました。
研修会には,17市町村から19名の参加者がありました。まず,東北大学の平川新教授による「江戸・明治時代の行政文書と資料保全」をテーマとした講演が行われました。特に,平成15年の宮城県北部連続地震の事例から,建物の倒壊とともに多くの貴重な資料が失われている現状について説明がありました。さらに,「みやぎ歴史資料保全ネットワーク」の活動と今後の課題(膨大な量の貴重文書の所在確認,行政との連携など)について報告がありました。続いて,県政情報公開室の文書担当職員が,県庁における公文書の管理・保存の状況についての説明を行いました。参加者からは,「災害時に保護する資料には優先順位があるのか?」,「県では,文書の保存延長はどこで判断しているのか?」など多数の質問が出されました。
研修会後のアンケートには様々な意見や要望があり,次回以降の研修会に反映させていきたいと考えております。
明治に入って間もなく,宮城県参事塩谷良翰しおのやよしもとの要請を受け,医師の中目斉なかのめひとしと石田真が中心となり,病院設立運営組織“共立社”を立ち上げました。そして,明治5年(1872年)5月11日,県から資金の一部を受け,仙台南町通に“共立病院”が設立されました。
ところで,開院当初,経営は困難を極めました。「共立病院建設顛末書」(明治9年作成)によると,当時の人々は,まだ“病院”に対する理解がないため,病気になっても診察を受けに来る者は少なく,資金を援助する者もいないという状況でした。それでも,医師たちは,薄給にもかかわらず私財を投じ,自ら建物を修理し,病院での医療に努めました。結果,その後数年で,多くの人々が病院を訪れるようになり,石巻と古川には分院が置かれ,種痘局や梅毒院も開設されました。明治12年(1879年)7月には,共立病院は公立となり,“宮城病院”(場所;国分町)と改称します。こうして,宮城県初の公立病院が誕生しました。
この後,宮城医学校附属病院(場所;現レジャーセンター)→宮城病院→仙台医学専門学校附属宮城病院と名称・組織を変えながら発展し,明治44年(1911年)3月,木町通西(現大学病院)に移転しました。そして,翌年3月,東北帝国大学附属病院となりました。
共立病院建設顛末書
平成19年5月8日(火曜日),東北学院大学文学部歴史学科日本現代史専攻の3・4年生31名が,ゼミ活動の一環として,当館を見学に訪れました。当館の概要及び閲覧室の利用方法や公文書の保存・取扱いについて説明を行った後,普段は決して立ち入ることのできない書庫を案内しました。学生の皆さんからは,「○○に関係する資料はあるか?」「なぜ非公開なのか?」など,多くの質問が出されました。さらに,当館の資料をぜひ活用したいという声を聞くことができ,当館にとっても有意義なものとなりました。
これからも,普及活動の一環として,見学者の受入れを行いますので,お気軽に当館までご連絡ください。
関係機関から寄贈された図書の一部をご紹介します。
6月20日(水曜日)より,常設展「明治前期の宮城 戦時中の人々の暮らし」を開催いたします。皆様のご来館をお待ちしております。
*展示内容は,追って当館ホームページに掲載いたしますので,あわせてご覧ください。
宮城県公文書館
郵便番号:983-0851 宮城県仙台市宮城野区榴ヶ岡5
電話番号:022-791-9333
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