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予定されたすべての野外調査を終了しました。現在、報告書刊行に向けた整理作業を行っています。
【基本情報】
所在地 | 黒川郡大衡村大衡字河原 |
調査原因 | 国道4号拡幅工事 |
調査期間 | 令和5年8月1日~ |
調査主体 | 宮城県教育委員会 |
調査協力 | 大衡村教育委員会 |
調査面積 | 調査中 |
【調査概要】
今年は河原遺跡を調査しています。これまでに20箇所以上の調査を行い、そのうち1か所で竪穴建物跡1棟と土坑(どこう)と呼ばれる穴を発見しました。
写真1 竪穴建物跡と土坑を発見した調査箇所を北から撮影した写真です。竪穴建物跡は写真奥(南側)に位置しています。左側の道路は国道4号で、右奥には七ツ森の山々が見えます。
写真2 竪穴建物跡を北西から撮影した写真です。建物跡は一辺3.2mの正方形で、カマドが設けられています。カマドは1度作り替えられていて、古いカマドは北辺に、新しいカマドは南辺にあったことがわかりました。
竪穴建物跡の年代は、出土した土器の特徴や、建物跡内に、秋田県と青森県の県境にある十和田火山から10世紀前葉に噴出した火山灰(十和田a火山灰)が堆積していたことから、9世紀頃(平安時代)とみられます。
写真3 竪穴建物跡の調査風景です。建物跡内に長い年月をかけて堆積した土を、色や固さなどの違いに注意しながら慎重に掘り進めていきます。
写真4 土坑から出土した坏(つき)と呼ばれるお茶碗のようなかたちの土器で、主に食器として使われていました。形や作り方の特徴から、竪穴建物跡と同じ9世紀頃(平安時代)の土器とみています。
発掘調査は終盤にさしかかってきました。暑い日が続きますが、体調に気を付けて調査に臨んでいきたいと思います。
【基本情報】
所在地 | 栗原市築館字萩沢木戸・後沢ほか |
調査原因 | (仮称)栗原インターチェンジ整備事業 |
調査期間 | 令和5年7月31日~ |
調査主体 | 宮城県教育委員会 |
調査協力 | 栗原市教育委員会 |
調査面積 | 調査中 |
【調査概要】
今年の発掘調査は、7月31日に始まりました。工事範囲は、図1のオレンジと水色の部分です。今年の工事範囲(水色部分)には木戸遺跡と後沢遺跡が含まれており、現在は木戸遺跡の調査を行っています。木戸遺跡は昭和51年と昭和52年にも調査されているので、今回はその時の調査成果をもとに、木戸遺跡の紹介をします。
図1 事業範囲と周辺の遺跡
木戸遺跡周辺には、鰻沢(うなぎさわ)遺跡や下萩沢遺跡、木戸平沢(きどひらさわ)遺跡、佐内屋敷(さないやしき)遺跡、後沢遺跡、後沢道南遺跡など数多くの遺跡があります。
木戸遺跡は、栗原市役所から2km程東に位置する遺跡です。東北自動車道の整備のために昭和51年と昭和52年に調査が行われています。その調査の成果から縄文時代と奈良~平安時代の集落(ムラ)跡であることが分かっています。
図2 木戸遺跡拡大図
上の地図のAとBで示されている場所は、昭和51年と昭和52年の調査で発見された竪穴建物跡のおおよその位置です。今年は、Aの竪穴建物跡の西隣のオレンジで塗られた範囲を調査します。もしかしたら、同じような遺構が出てくるかもしれません。
次にAとBの竪穴建物跡の調査成果を少し詳しくご紹介します。なお、写真はすべて宮城県文化財調査報告書第69集に掲載されたものを使用しています。
径約9mのほぼ円形の竪穴建物跡で、住居と考えられます。床面の壁沿いには幅20~40cm、深さ30~40cmの溝(周溝:しゅうこう)が巡っています。床面と周溝より縄文時代中期の土器が出土していることから、建物跡はこの時期のものと考えられています。
写真1 縄文時代の竪穴建物跡です。建物跡内にある十数個の穴のいくつかは、屋根を支える柱穴と考えられています。
写真2 出土した縄文土器です。渦巻の文様が見えます。
一辺約4.4mの方形の竪穴建物跡で、住居と考えられます。新しい時期の溝によって壁と床面の一部が壊されています。床面やカマド、貯蔵のための穴(貯蔵穴:ちょぞうけつ)より奈良時代の土師器(はじき)と呼ばれる土器が出土していることから、建物跡はこの時期のものと考えられています。
写真3 奈良時代の竪穴建物跡を西から撮影した写真です。床面には屋根を支える柱穴が4個見つかっています。カマドは東辺に設けられていて、白色の粘土で作られています。カマドからは、建物外に煙を出す穴(煙道:えんどう)が東辺から長さ約70cm延びています。また、建物跡の南東隅には貯蔵穴が掘られていて、その中から土師器の甕(かめ)が出土しています。
写真4 出土した土師器です。上段の2点が坏(つき)、下段が甕(かめ)です。
今年はどのような遺構や遺物との出会いがあるでしょうか。調査成果をお楽しみに!
今回は図1の水色の範囲で示されている後沢遺跡の調査成果をご紹介します。
全体の事業範囲や今年度の調査範囲については、「発掘調査通信 第1号」をご参照ください。
図1:後沢遺跡の調査範囲
今回の調査範囲では、工事は盛土によって行われるため遺跡の保存が可能なことから、表土を除去して遺構
の有無のみを確認する調査を実施しました。その結果、奈良・平安時代の竪穴建物跡や掘立柱建物跡、縄文
時代の陥し穴が発見され、昨年までの調査成果とあわせ、遺跡の様子が少しずつ明らかになってきました
(図2)。
図2:後沢遺跡H27・R4・R5年度の調査成果
(赤枠:今年度の調査区、ピンク色:竪穴建物跡(奈良・平安時代)、青色:陥し穴(縄文時代))
写真1:重機で表土(現在の耕作土など)を取り除くと、黒みを帯びた茶色の土が四角形の輪郭で堆積してい
る箇所が見えてきました。
写真2:道具を使って人力で土を削ってきれいにすると、上の写真のように黒みを帯びた茶色の土の四角い輪
郭がはっきりと見えてきました。写真の赤丸は、煮炊きをするカマドの煙道部分とみられることか
ら、これらは竪穴建物跡と考えられます。カマドの構造については図3を参照ください。建物中央
にみえる白い部分は秋田県と青森県の県境にある十和田火山から10世紀前葉に噴出した火山灰(十
和田a火山灰)と考えられます。
図3:カマドのイメージ図
※竪穴建物跡やカマド、十和田a火山灰については、みやぎ文化財チャンネル内での動画「みやぎ☆遺跡
の参加日」で詳しく解説しています。下記のリンクから是非ご覧ください。
平成27年度と令和4年度にも後沢遺跡の発掘調査を行っており、奈良・平安時代の竪穴建物跡(SI01、
SI09)がみつかっています。今回発見された竪穴建物跡(SI12)も、規模やカマドの特徴、十和田a火山灰
が建物内に堆積していることから、同様に奈良・平安時代のものであると予想されます。
写真3:調査を行った範囲の西側では、黒い土が堆積している四角形の穴がみつかりました。
写真4:道具を使って土の表面を削り、きれいにすると、10個の穴が等間隔で並んでおり、掘立柱建物跡で
あることが分かりました。
一つ一つの四角い穴は、柱を立てるために掘られたもので、黒い土は柱が倒れないように柱の周りを
埋めた土です。
建物の構造については、みやぎ文化財チャンネル内での動画「みやぎ☆遺跡の参観日」で、令和4年
度の後沢道南遺跡の発掘調査でみつかった古代の掘立柱建物跡の紹介と合わせて解説しておりますの
で、下記のリンクから是非ご覧ください。また、時期については、令和4年度に調査を実施した後沢
道南遺跡の掘立柱建物跡と同じ奈良・平安時代の可能性がありますが、遺物が出土していないため現
在検討中です。
写真2の左下の細長い楕円形の輪郭が陥し穴(おとしあな)です。
写真5:平成27年度や令和4年度の後沢遺跡の調査において、類似した形の遺構がみつかっています。こ
れらは、獣などを捕まえるための陥し穴と考えられ、広範囲にわたって分布しています(図2)。
時代は、調査区から縄文土器が出土していることから縄文時代のものとみられます。これらの陥し
穴は、当時の獣が通る道につくられ、狩りに使われていたと考えられています。
後沢遺跡では、竪穴建物跡1棟、掘立柱建物跡1棟、土坑(陥し穴)1基などがみつかりました。これまで
の調査成果を合わせると、調査した範囲について縄文時代は狩りの場、奈良・平安時代は居住の場として利
用され、時代によって土地の使われ方が異なることがわかりました。
今回の記事内で出てきた用語や昨年度の栗原IC事業関連の発掘調査成果(後沢遺跡・後沢道南遺跡)をより詳しく知りたい方は、下の動画を是非ご覧ください。
・火山灰の説明 11m25s~ ・後沢・後沢道南遺跡の空撮動画
・カマドの説明 15m07s~
・陥し穴の説明 16m35s~
・掘立柱建物跡の説明 21m39s~
東日本大震災発生後、宮城県教育委員会としては、復興事業と埋蔵文化財保護を両立し、高台移転や復興道路などの復興事業に伴う発掘調査の円滑・迅速な実施に取り組んでまいりました。
(1)宮城県発掘調査基準の弾力的な運用
復興事業に限り、遺跡が壊される範囲(平面・深さ)のみを調査対象としました。これにより、盛土施工部分や下層の調査等を省略することが可能になるため、調査期間を短縮することができました。
所在地 | 本吉郡南三陸町志津川字大久保 |
---|---|
調査原因 | 水尻川河川災害復旧工事 |
調査期間 | 令和元年9月9日~令和2年7月28日 |
調査主体 | 宮城県教育委員会 |
調査協力 | 南三陸町教育委員会 |
調査面積 | 約150平方メートル |
【調査概要】
令和3年度から、整理作業の“いま”をお知らせする「整理作業通信」をスタートしました。
今年度第1号のテーマは「土製品」です。
粘土で形を作り焼成したもののうち、器(うつわ)の形をしていないもの全般を土製品と呼んでいます。そのため、日常で使うものから特別な時に使うものなど土製品には多くの種類があります。
大久保貝塚からは、まつりの道具と考えられる土偶(どぐう)、土版(どばん)、土面(どめん)や、装身具〈アクセサリー〉と考えられる耳飾り(みみかざり)、土玉(どだま)などの縄文時代の土製品が120点ほど出土しています。
これらは、土器・石器・骨角器などの生活道具や、貝殻・骨などの食べかすなどと同じように、捨て場から見つかりました。
今回はその中から一部を紹介します。
土偶(どぐう)
写真1:土製の人形です。女性をかたどった像とされており、用途や製作する目的などに諸説ありますが、主に呪術的・宗教的意味をもたせて作られたと考えられています。
大久保貝塚では全身が残った状態で出土したものはなく、すべて破損していました。写真左の2点は頭の部分、右の2点は頭から胴の部分です。頭や胴の部分は、紐状・帯状の細長い粘土の輪を積み重ねて形作られているため、内側が空洞です。
顔は横長で、目、鼻、口、耳は、粘土の粒や紐を付けたり、木の棒の先端などで細い線を引いたり刻みを入れたりすることで表現されています。このうち、右上の土偶には、耳の部分に小さな穴があります。これは、耳飾りを付けるために耳に開けた穴を表したものと考えられます。
また、右の2点には、胸の部分に粘土の粒を付けることで乳房が表現されています。このほか、文様のない部分の表面は丁寧に磨かれ鈍い光沢があります。
上段の2点の土偶には、赤い顔料が少量付着しており、本来は赤く色付けされていたと考えられます。また、右下の土偶は、右腕の欠けた部分にアスファルトが塗られており(※)、壊れた後に補修されたことがわかります。
(※)天然のアスファルトは縄文時代に接着剤として利用されていました。主な産出地としては秋田県や新潟県が有名です。
出土した土偶を動画で紹介しています。
土版(どばん)
写真2:主に長方形や楕円形の板状の土製品で、表面には文様がみられます。
土版には顔や身体の表現を持つものがあり、土偶と共通するような役割を果たしていたとする意見や、紐を通すことができる穴をもつことからお守りとして使われたとする意見があります。縄文時代晩期の東日本を中心に広く分布することが知られています。
厚さは5mmから1cmほどで、表面には、木の棒の先端などを使って引いた線や点により四角形や弧状の文様が描かれています。また、右の2点には2箇所に穴が開けられています。
赤い顔料が付着しているものもあり、赤く色付けされていた可能性があります。
土面(どめん)
写真3:人の顔を表現した土製の仮面です。顔や額にあてたり、手に持つなどして儀礼に使われたと考えられています。
土面は、東日本を中心に広く分布することが知られていますが、他の土製品と比べると出土例は少なく、比較的珍しい遺物といえます。
大久保貝塚では、全体の半分程度が出土しました。残った部分から本来の形を推定すると、写真の点線で示したようになります。大きさは、残っている部分の長さが15cm、幅が14cm、厚さが2cmで、現在の大人の顔より少し小さめという印象です。
表側には眉、目、口が表現され、口の中には歯もみられます。額には土器にみられる文様と同じ「π」の形の文様で、頬の部分には半円や直線の文様で装飾されています。文様のない部分や裏側は、丁寧なミガキで光沢が出ています(※)。
また、こめかみと頬から顎の部分には直径2 mmから3mmの小さな穴が開けられています。縄文時代の人々が、この穴に紐を通し顔に付けて使用していた可能性があります。
(※)ミガキとは、木のヘラなどの工具で粘土の表面を擦り、滑らかにする作業です。
耳飾り(みみかざり)
写真4:大久保貝塚で出土した土製の耳飾りは、中央部分がくびれた形をしており、中には写真下段【赤線内】のように内部に貫通する穴が開けられているものもあります。多くは、表面に赤い顔料が付着しており、赤く色付けされていたと考えられます。
現代のピアスのように、穴を開けた耳たぶにはめ込んで使われたと考えられます。
土玉(どだま)
写真5:土製の小玉で、主に中央部分に小さな穴が開けられています。60点ほど出土しており、大久保貝塚から出土した土製品の半数を占めます。
様々な形があり、写真左は円形【赤線内】、写真中央【緑線内】・右【黄線内】は細長い形、写真右上【青線内】は円形で周りに突起がつきます。細長い形のものには、穴の位置が中央にあるもの【緑線内】と片側によるもの【黄線内】があります。
大きさは、大半が直径または長さ5mmから1cmほどです。多くは、表面に赤い顔料が付着しており、赤く色付けされていたとみられます。
形や穴の位置が異なる複数の種類の土玉を紐に通して、ネックレスやブレスレットのようなアクセサリーとして使われたと考えられます。
今回紹介した土製品は、縄文時代の人々の暮らしや装いを考えるうえで貴重な資料です。
大久保貝塚の縄文時代の社会や生活を解き明かすために、今後も引き続き日々の整理作業に取り組んでいきます。
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