掲載日:2021年2月18日

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2020年発掘調査情報

復興調査について

1.基本方針

東日本大震災から9年が経過し10年目となる今年度は,震災復興の総仕上げに向けて復興事業が進められています。宮城県教育委員会としては,復興事業と埋蔵文化財保護を両立し,高台移転や復興道路などの復興事業に伴う発掘調査の円滑・迅速な実施に取り組んでいます。

2.円滑・迅速な発掘調査のための施策

(1)宮城県発掘調査基準の弾力的な運用

復興事業に限り,遺跡が壊される範囲(平面・深さ)のみを調査対象とします。これにより,盛土施工部分や下層の調査等を省略することが可能になるため,調査期間の短縮が見込まれます。

(2)調査体制の強化

宮城県教育委員会では,平成24年度から平成28年度まで他県市から発掘調査専門職員の協力を得て,調査体制の強化を図ってまいりました。平成29年度からは復興事業の進捗状況を踏まえつつ,庁内組織の連携による体制強化を行っています。

【令和2年度の調査体制】
*宮城県職員 文化財課19名,東北歴史博物館1名,多賀城跡調査研究所1名

3.主な復興事業に伴う調査

  • 復興道路建設事業に伴う調査(県市町道建設)
  • 沿岸市町復興事業に伴う調査(ほ場整備事業・漁業集落防災機能強化事業等)
  • 被災した個人住宅,零細・中小企業の再建事業に伴う調査
  • その他復興事業に伴う調査

発掘調査の進捗状況

令和2年度に宮城県教育委員会が実施した発掘調査と,県内市町に協力をした発掘調査の状況を掲載しています。

A.復興事業に伴う発掘調査

1.大久保貝塚

【基本情報】
所在地 本吉郡南三陸町志津川字大久保
調査原因 水尻川河川災害復旧工事
調査期間 令和元年9月9日~令和2年7月28日
調査主体 宮城県教育委員会
調査協力 南三陸町教育委員会
調査面積 約150平方メートル

【調査概要】

大久保貝塚は,志津川湾の湾奥部,水尻川の南岸に位置する縄文時代の貝塚で,河口に面した丘陵の裾部に貝層が形成されています。

今回の調査は,東日本大震災に伴う河川災害復旧工事に先だって実施したものです。昨年度の9月に開始した発掘調査は,7月28日に完了しました。

調査の結果,貝層は上部と下部の大きく2つに分けられ,上部の貝層が縄文時代晩期,下部の貝層が後期に形成されたことがわかりました。

上部の貝層からは,縄文土器,石器,骨角器(動物の骨や角で作った道具や装飾品)や,アサリ・カキなどの貝類,シカ・イノシシなどの動物の骨,イワシ・アイナメ・マグロなどの魚の骨が大量に出土しています。貝層に残された道具や食料を調べることで,当時の人びとの暮らしぶりを知ることができます。

現在は,発掘現場で土のう袋に回収した貝層を水で洗いながら細かい目のフルイにかけ,土器・石器などの遺物や動物・魚などの骨を取り出す作業を進めています。

【調査概要資料】

*発掘調査の概要資料はこちら大久保貝塚発掘調査概要資料(PDF:3,864KB)

なお,資料の著作権は宮城県が保有しておりますので、二次配付・無断転載は禁じられています。

大久保貝塚の空撮

〔遺跡の遠景〕遺跡は国道45号と水尻川が交差するあたりに位置しています。

上部貝層の分布

〔上部の貝層〕写真左側の白く見えるところに上部の貝層が分布しています。

上部と下部の貝層

〔下部の貝層〕写真右側に下部の貝層が分布しています。

貝層の断面

〔貝層の断面〕上部の貝層は60センチほどの厚さがあります。

壺が出土した様子

〔遺物の出土〕貝層から縄文土器の壺がほぼ完全な状態で出土しました。

注口土器と浅鉢

〔遺物の出土〕注ぎ口が付いた土器の中に小型の浅鉢が重なった状態で出土しました。

石棒が出土した様子

〔遺物の出土〕貝層から石棒が出土しました。

鯨の背骨が出土した様子

〔遺物の出土〕貝層からくじらの椎骨(背骨)が出土しました。

水洗フルイの様子

〔水洗フルイ〕現場で回収した貝層を水で洗いながらフルイにかけている様子です。調査では土のう袋(1袋に約10リットル)で4,000袋以上の貝層を回収しています。

2.中沢館跡(石巻市)

【基本情報】
所在地 石巻市大原浜字向山
調査原因 県道石巻鮎川線 給分浜復興道路事業
調査期間 令和元年8月5日~10月31日,令和2年6月8日~7月27日
調査主体 石巻市教育委員会
調査担当 宮城県教育委員会
調査面積 約2,225平方メートル

【調査概要】

中沢館跡は,牡鹿半島南西部の丘陵上に築かれた中世城館跡です。つくられた時期は不明ですが,戦国大名葛西氏の家臣,中沢氏の居館と推定されています。天正16(1588)年には,館の曲輪(平坦面)内に所在した中沢神明社(現在は丘陵南西斜面に移築されている)に対して,葛西氏の第17代当主晴信が戦勝を祈願した願文を寄せており,このとき神明社を管轄していた中沢左近之丞が当時の館主であったと考えられています。

今回の調査は,東日本大震災に伴う復興道路の整備にあたって昨年度に引き続き実施したものです。今年度の調査区は昨年度調査した範囲の北側にあたり,曲輪状の平坦面を3箇所確認しましたが,柱穴等は確認されませんでした。遺物も出土していないため,平坦面がいつ造成されたのかは不明です。

中沢館跡全景

〔調査区全景(南から)〕段状に造成されている様子がわかります(写真提供:石巻市教育委員会)

調査風景

〔調査風景〕曲輪状の平坦面を調査しています(写真提供:石巻市教育委員会)

3.戸花山遺跡(山元町)

【基本情報】
所在地 亘理郡山元町坂元字戸花山
調査原因 町道新浜諏訪原線道路改良事業
調査期間 令和2年5月11日~令和2年9月30日
調査主体 山元町教育委員会
調査協力 宮城県教育委員会
調査面積 約3,660平方メートル

【調査概要】

戸花山遺跡は,飛鳥時代~奈良時代の製鉄関連遺跡と考えられています。調査は昨年度から実施しており,今年度は主に西側のA区の調査を実施しました。

A区では木炭窯2基,竪穴建物跡1棟,製鉄炉2基,鍛冶関連遺構2基,廃棄場1箇所などを調査し,砂鉄から鉄を作った際に出る不純物(鉄滓)や,炉に空気を送る管(羽口),土師器(土器)などが出土しています。

調査区全景

〔遺跡遠景〕戸花山遺跡は,平野を望む小高い丘陵上に立地しています。

木炭窯の調査風景

〔調査風景〕平安時代の木炭窯を調べているところです(写真提供:山元町教育委員会)

竪穴建物跡の調査風景

〔調査風景〕竪穴建物跡を調べているところです(写真提供:山元町教育委員会)

4.石森城跡(石巻市)

【基本情報】
所在地 石巻市大原浜屋敷
調査原因 県道石巻鮎川線 給分浜復興道路事業
調査期間 令和2年8月3日~令和2年11月27日
調査主体 石巻市教育委員会
調査担当 宮城県教育委員会
調査面積 約5,150平方メートル

【調査概要】

石森城跡は,牡鹿半島南西部,海を望む丘陵上に築かれた中世城館です。元は大原掃部介(おおはらかもんのすけ)が城主であったと言われ,その後,戦国大名・葛西氏没落後にその家臣であった石森氏が,登米市石森館から落ち延びて居館としたと伝えられています。

東日本大震災に伴う復興道路が遺跡範囲の中央部を横断するように計画されたことから,平成30年度に確認調査を実施し,その結果を受けて令和2年8月から本発掘調査を開始しました。

調査では,縄文時代(前期)の遺物包含層2箇所,近世かそれより古い可能性がある溝跡1条,近世の土塁2条などを確認しました。遺物は,縄文土器(前期の上川名2式・大木1式),石器,中世陶器,近世陶磁器などが出土しています。

SX1遺物包含層の調査風景

〔SX1遺物包含層の調査風景〕縄文時代前期の土器や石器が出土しています(写真提供:石巻市教育委員会)

SX7遺物包含層の調査風景

〔SX7遺物包含層の調査風景〕 遺物包含層は谷状の地形に分布しています(写真提供:石巻市教育委員会)

土塁の調査風景

〔SF9土塁の調査風景〕土塁は地山を削り出した上に礫を多く含む土を積んで構築しています(写真提供:石巻市教育委員会)

SF9土塁の遺物出土状況

〔SF9土塁の遺物出土状況〕土塁の構築土から近世の陶器が出土しています(写真提供:石巻市教育委員会)

B.通常事業に伴う発掘調査

1.吹付窯跡・彦右エ門橋窯跡(大衡村)

(1)吹付窯跡

【基本情報】
所在地 黒川郡大衡村駒場字吹付
調査原因 国道4号拡幅工事
調査期間 令和2年8月3日~8月27日
調査主体 宮城県教育委員会
調査協力 大衡村教育委員会
調査面積 約905平方メートル

【調査概要】

吹付窯跡は,奈良時代から平安時代の窯跡です。今回の調査では,窯跡は確認されませんでしたが,南側調査区の南側から流れこんだとみられる土師器や須恵器の破片が出土しました。

今回の調査区の南側には奈良・平安時代の集落が存在する可能性が考えられ,来年度以降の調査成果が期待されます。

(2)彦右エ門橋窯跡

【基本情報】
所在地 黒川郡大衡村大衡字萱刈場
調査原因 国道4号拡幅工事
調査期間 令和2年9月3日~令和2年12月25日
調査主体 宮城県教育委員会
調査協力 大衡村教育委員会
調査面積 約1,300平方メートル

【調査概要】

彦右エ門橋窯跡は,奈良時代から平安時代の土器(須恵器)や瓦を焼いた窯跡です。今年度は,昨年度調査区の北側を調査しています。

調査では,現在のところ竪穴建物跡や土師器焼成遺構が発見されています。今後の調査で遺構の分布や年代を確認し,昨年度の調査成果と合わせて,土器や瓦を生産した古代の集落の様子を明らかにしていきます。

発掘現場通信 第1号(7月27日更新)

大衡村を走る国道4号の4車線化工事に伴う発掘調査の2年目が始まりました。

この区間の国道4号は,小高い丘の上を走るルートになっており,ルート上には遺跡が数多く存在しています。それらの遺跡の名前をみると,「〇〇窯跡(かまあと)」と付くものが多いのが特徴で,奈良時代から土器や瓦を焼いて周辺地域に供給していた大工業地帯だったことがこれまでの調査で分かってきています。

今年度は,その中でも「吹付(ふつけ)窯跡」と「彦右エ門橋(ひこうえもんばし)窯跡」の2つの遺跡を調査する予定です。

吹付窯跡の調査予定地

〔写真1〕吹付窯跡の調査予定地。道路のすぐ側を調査するので,交通安全にも気を配ります。

さて,発掘調査を始める前にまず必要な作業が「基準点の設置」です。

調査した場所や発見した遺構・遺物がどこにあるのかというのを表す基準のひとつに「世界測地系」というのがあります。GPSなどにも使われているもので,X・Y・Zの3つの値をもとに“その場所が地球上のどこにあるのか”をピンポイントに表すことができます。道路などを作った時に工事業者の方が測定したポイントが周辺にいくつかあるのですが,そこから発掘調査で使いやすい位置に基準点を設置しておきます。

測量杭の捜索

〔写真2〕座標が測ってある測量杭を探しています。草が元気に伸びていたので,探すのも一苦労です。

測量機材の設置

〔写真3〕見つけた杭の上に,座標を測る機械を設置しています。

座標の移動は,写真3のような機械で行います。この機械は座標を測るだけでなく,パソコンソフトと連動して遺跡の図面も描くことができる優れものです。昔は手作業で行っていた図面作成も,これでかなりスピードアップしました。実際に作業している様子は,また後日お知らせできればと思います。

この他にも,プレハブを設置したり,たくさんの道具を運んだり,様々な準備を経て発掘作業に入ることができます。

そして,来週には作業員さんと重機が合流して,本格的な調査が始まります。どんなものが発見できるか楽しみです。

発掘現場通信 第2号(8月6日更新)

8月初めからいよいよ調査が本格的にスタートしました。

まずは,調査を安全に進めていくための環境整備から取り掛かります。調査区をバリケードで囲ったり、必要な道具を運搬したり…意外とこれらの作業だけで1日かかったりします。

今回の調査場所での一番の強敵は,生い茂った草と排水溝にたまった泥でした。草で足元が見えないと,穴などに足を取られてケガにつながります。また,排水溝が詰まったままだと,雨水が調査区にあふれてしまい水くみに多大な時間を要してしまいます。安全で効率的な調査にするためには,とても重要な作業です。

調査区周辺の環境整備

〔写真1〕調査区周辺の草刈り

さて,周囲の環境整備をしている間に,調査区では重機による掘削が始まっています。

遺跡の発掘調査と聞くと,小さなハケやヘラのようなもので細かい作業をするようなイメージをお持ちの方が多いと思います。しかし実際は,そのような場面は調査の後半に行われることが多く,はじめは重機やスコップなどでどんどん掘りすすめます。調査をできる限りスムーズに短期間で終わらせるために,調査員が的確に土の色の違いなどを判断しながら進めていきます。

重機による表土掘削

〔写真2〕重機で表土を掘削しています

写真2は,重機で表土を取り除いている様子です。現在の我々が水田や畑として利用している土を取り除き,その下に隠れていた昔の土をあらわにするのです。

さあ,この調査区ではどんなものが出てくるでしょうか。

発掘現場通信 第3号(8月21日更新)

7月までの長雨・涼しさが嘘のように,連日とても暑い日が続いています。休憩や水分補給の回数を増やし体調管理に注意しながら調査を進めています。

さて,前回の報告では,重機で現在の表土など新しい時代の土を取り除いたところまでお伝えしていました。

次は,みんなで「遺構検出」作業をしていきます。ジョレンなどの道具を使い人力で土を削り取ると,土の色やかたさなどの違いが鮮明になり,どんな土が積もっているのか,「遺構(いこう)」があるのかどうかを判断しやすくなります。

遺構の検出作業風景

〔写真1〕土を削る作業は結構力がいります

ここで,「遺構」という言葉を使いましたが,これは昔の人々の生活に関わる痕跡の中でも「地面と一体化して動かすことのできないもの」のことを言います。建物・井戸や窯の跡などがそうです。

これに対して,「そこから動かせるもの」を「遺物(いぶつ)」と言い,土器・石器や鉄器などがこれにあたります。

それら「遺構」や「遺物」が地面の下に眠っている範囲を「遺跡」と呼びます。今後もこの報告の中で何回も出てくる言葉ですので,ぜひ覚えてください。

さて,「遺構検出」が終わった後の調査区の様子が写真2です。

清掃後の様子

〔写真2〕土の違いがわかるようになりました

真ん中あたりの土が黒っぽくて,その両脇の土がオレンジ色なのが分かりますか?

この黒い土の部分には周りとは違う土が積もっていて,違う土が積もっているということは,そこが当時周りと比べてくぼんでいたことになります。

そのくぼみはどんな形をしていて,どんな土が積み重なっているのか。人間が掘ったり,埋めたりしたくぼみなのか。はたまた,自然のくぼみなのか・・・

調査を進めていくことで,このくぼみの正体を解き明かしていきましょう。

発掘現場通信 第4号(8月26日更新)

8月も終わりに近づきましたが,まだまだ暑いです・・・。作業員さんと一緒に現場での調査を開始してから3週目に入りました。熱中症やケガ等の予防のため,引き続き休憩や水分補給を十分に取りながら調査を進めています。

さて,前回の報告では,新鮮な土を見えるようにする「遺構検出」という作業を紹介しました。

(1)「表土の除去」→(2)「遺構検出」と進み,次は(3)「トレンチの設定」という作業に移っていきます。

トレンチ設定前

〔写真1〕トレンチ設定前の様子

トレンチ設定後

〔写真2〕トレンチを設定し掘り下げた様子

この作業(写真2)は,遺構の可能性がある範囲に設定した溝(トレンチ)を掘り下げて,深さやどんな土がどのような順番で積もっているのかを確認するものです。

「遺構検出」で土の色の違いや範囲を「上から(平面で)」確認したのに対し,この作業では「横から(断面で)」確認します。遺構を平面だけででなく,断面でも確認することで,土の堆積をより正確に,詳細に理解することが可能となります。

トレンチの断面

〔写真3〕トレンチの断面

写真3は,トレンチを掘って見えてきた断面です。色の違う土が順番に積み重なっているのが分かりますか?今回調査したこのくぼみは,大きく分けて5つの層に分かれました。それぞれの土が順番に積もり、このくぼみを埋めていったんですね。

ちなみに,これらの土は自然に流れてきてたまった可能性が高く,くぼみの形も人間が掘ったような形ではなかったため,遺構ではなく「自然の沢の跡」という結論を出しました。

このように,見つけた土の違い一つ一つを調査して由来を考えていくことが,発掘調査のポイントの一つです。

発掘現場通信 第5号(9月2日更新)

前回までに,「発見した土の違い」を「平面」と「断面」で確認するところまでご紹介しました。

ここまできたら,次はついに「記録」になります。発掘調査において,この「記録・保存」はとても重要な項目です。

というのも,皆さんの生活している地域では,日々新しい道路ができたり,建物がたったりしていますよね。これらの開発は,現在の我々の生活を豊かにしていくために必要である一方で,地下に眠る埋蔵文化財を破壊する,または二度と確認することができない形で覆ってしまうことがあります。

しかし,文化財は人類共有の財産として,未来の人々にも伝え残していかなくてはなりません。発掘調査員の仕事は,工事に先立って発掘調査を行い,破壊されてしまう遺構や遺物を写真・図面などあらゆる手段で記録・保存することで,後世にその価値を残すことなのです。

測量作業

〔写真1〕基準点の上に測量機械を設置します

測量作業その2

〔写真2〕右手でミラーを立て,左手でパソコンを操作しています

図面の作成で大活躍するのが,この機械です。これは,測りたい場所にプリズムミラーを立てて計測すると,自動的にパソコン上に図面を描いてくれます。

少し前までは,巻き尺などで測ったものを人の手で紙に描いていました。機械の導入により作業時間は短縮され,よりスピーディに調査を進められるようになりました。

作成した図面

〔写真3〕作成した図面

そして,出来上がった図面がこのような感じです。この図面には,大きさや深さだけでなく,標高何メートルにあるのか,地球上のどこにあるのかなど,たくさんの情報が記録されています。

教科書に載るような発見はそうあるものではないですが,どんな些細な遺跡にも,そこには昔の人々のくらしが刻まれています。これらの記録が後世の人々に受け継がれ,地域の歴史を知ったり,ふるさとに愛着をもったりする一助になってくれたらうれしいです。

発掘現場通信 第6号(9月15日更新)

前回までの報告で,発掘調査における一連の流れを紹介しました。

まとめると,「表土(遺跡と関係のない土)を取り除く」→「遺構・遺物を見つけ出す」→「遺構を掘り下げる」→「記録をとる」という作業を繰り返しながら発掘調査を進めていきます。

吹付窯跡では,写真1・2のような細長い調査区を19か所設定して調査しました。その結果,元々の地形は沢(くぼ地)だったこと,そこに家や田畑をつくるために大きく地形を削ったり盛ったりして整地していたことが分かりました。調査の結果,土師器片が少量出土し,これらの遺物を取り上げた後,地形を測量し記録をとって調査を終了しました。

西側の調査区

〔写真1〕西側の調査区(東から)

東側の調査区

〔写真2〕東側の調査区(北東から)

さて,続いては「彦右エ門橋窯跡」の調査です。今回の調査地点は,昨年度に奈良・平安時代の土師器や木炭を生産した遺構のほか須恵器や瓦が発見された場所のすぐ北側にあたります。

(昨年度の調査については「2019年発掘調査情報」「現地説明会資料(PDF:2,068KB)を参照)

基礎撤去作業の様子

〔写真3〕建物の基礎撤去作業

まずは,調査区に残っていた建物の基礎部分を撤去する作業を行いました。基礎を乱暴に撤去してしまうと,その下に隠れている遺構や遺物を壊してしまう可能性があります。そのため,遺跡範囲内での基礎撤去には文化財担当職員が立ち会い,深さや土を見極めながら慎重に作業を行います。

さあ,この後は重機で現代の表土を取り除きます。今度はどんな様子がみられるでしょうか・・・。

発掘現場通信 第7号(10月23日更新)

10月に入り,彦右エ門橋窯跡の表土除去~遺構検出作業を進めています。

調査区南端の遺構検出状況

〔写真1〕調査区南端の様子(南西から)

写真1は,調査区南端の表土を除去した状態です。黒色や濃い茶色の土が広がる範囲は,建物等の遺構である可能性があり,一見しただけでもたくさんあるのがわかります。

どんな遺構や遺物が発見されるのか期待が高まります。

竪穴建物跡の可能性がある遺構の検出状況

〔写真2〕遺構の検出状況

写真2の黒い土の範囲が正方形のような形をしているのがわかりますか。これは,昔の人々が生活をしたり作業をしたりした「竪穴建物跡」と考えられます。

竪穴建物は半地下式の建物で,地面を正方形や円形に掘りくぼめ,建物の床面と壁をつくります。そこに,柱を立て屋根をかけて建物が出来上がります。

建物の中には,調理用のカマドをつくったり,食料を保管する穴を掘ったり・・・生活や作業に必要な様々な施設を整えます。1,000年以上前の建物ですが,非常によく考えてつくられています。建物の施設については,また別の機会にご紹介できると思います。

建物が使われなくなると,掘りくぼめた部分に周りの地面とは違う色の土が流れ込んで埋まります(人間が土をもってきて埋めることもあります)。そのため,平らに削ると,写真のような正方形の輪郭が見えるのです。

検出作業風景

〔写真3〕竪穴建物跡の検出作業風景

竪穴建物は,以前は竪穴「住居」と呼ばれていたましたが,最近では「建物」と呼ぶことが一般的になっています。「建物」に変更されたのは,寝たり食事をしたりして住んだ「住居」のほかに,作業場や倉庫として使用されたことも考えられるからです。

調査が進むにつれ,竪穴建物の内容が明らかになっていきますので,お楽しみに。

発掘現場通信 第8号(11月2日更新)

前回の報告では,検出された竪穴建物についてご紹介しました。

現在の調査区では,竪穴建物跡は7棟ほどみつかっていますが,それよりも多くみつかっている遺構があります。

それが「土師器焼成坑(はじきしょうせいこう)」です。読んで字のごとくですが,「土師器という土器を焼くために掘った穴」です。

土師器焼成坑の検出状況

〔写真1〕土師器焼成坑の検出状況

写真1の左上にある楕円形の土の範囲が土師器焼成坑の検出状況です。使われなくなった焼成坑のくぼみに茶色の土が流れ込んで堆積しています。

土師器焼成坑の炭化物層

〔写真2〕土師器焼成坑の炭化物層

この茶色の土を除去すると,黒い土が広がります。これは,土師器を焼いた際の燃料(薪やワラ)の燃えカスがたまったものです。

土師器焼成坑の底面

〔写真3〕土師器焼成坑の焼成面

さらにその炭化物の層を除去すると,オレンジ色の固い土が広がります。これは焼成坑の底面で,土師器を焼いた際に熱を受けて固く焼きしまっています。

当時の人々がここで土師器を焼いたんだなあというのが実感できますよね。

土師器焼成坑のイメージ図

〔図1〕土師器焼成坑の想定図

図1は土師器焼成坑の使用状況を横からみたイメージ図です。直径1~2m程のくぼみの中に土師器を並べて、ワラや灰をかぶせて焼く「覆い焼き(おおいやき)」という方法で焼かれたと考えられます。

発掘調査では,土師器焼成坑の底の方に残った焼成時の痕跡を探して,写真や図面などの記録をとります。また,焼成に失敗してそのまま捨てられた土師器があれば,土師器の年代を調べることで焼成坑の年代を特定します。

このような土師器焼成坑が,現在のところ10基ほどみつかっています。調査区の周辺は,平安時代に土師器生産が行われた場所だったことがわかってきました。

発掘現場通信 第9号(11月9日更新)

今回は,土師器焼成坑と竪穴建物跡の調査についてご紹介します。

竪穴建物跡と土師器焼成坑の検出状況

〔写真1〕土師器焼成坑と竪穴建物跡を検出した様子

写真1の白線は,平面形から楕円形の輪郭が土師器焼成坑,四角形の輪郭が竪穴建物跡と考えられる遺構で,これらが重なり合って発見されました。

複数の遺構が重なり合って発見された場合,考古学では輪郭をたどることができる方が新しいと判断し,新しい遺構から先に調査するので,土師器焼成坑から調査を進めます。

土師器焼成坑を半裁している様子

〔写真2〕土師器焼成坑を半裁している様子

まずは,土師器焼成坑の中に堆積した土を半分に割って掘り下げます。このような調査方法を「半裁(はんさい)」といいます。

土師器焼成坑を半裁した様子

〔写真3〕土師器焼成坑を半裁した様子

土師器焼成坑を半裁したら,真ん中の断面(壁)で土層を観察し,記録をとります。掘り下げた底面部分では,炭化物やオレンジ色に焼けた面が確認できました。

次は重なり合った竪穴建物跡を掘り下げていきます。土師器焼成坑と断面をつないで掘り下げることで,土の堆積した順番をあきらかにし,本当に土師器焼成坑の方が新しいのか確認します。

断面を確認した結果,竪穴建物跡が使われなくなり埋まった後に,その一部を壊して土師器焼成坑が作られたことが確かめられました。

竪穴建物跡を掘り下げている様子

〔写真4〕竪穴建物跡を掘り下げた様子

写真4は竪穴建物跡のくぼみにたまった土を掘り下げた状況です。竪穴建物跡の調査では,十字形の土手を残して掘り下げます。このような土層の観察のために残した土手のことを「ベルト」と呼び,記録用の情報を残しながら掘り進めます。

竪穴建物跡の掘り下がった部分に線がひいてありますが,これらは建物に関係する様々な施設が見つかり始めたことを意味します。次号では,その施設をご紹介します。

発掘現場通信 第10号(11月20日更新)

竪穴建物には,さまざまな付属施設があり,快適に暮らすための創意工夫が施されています。

今号から,竪穴建物の付属施設をいくつかご紹介します。今回ご紹介するのは「周溝(しゅうこう)」です。

竪穴建物跡を床面まで掘り下げた様子

〔写真1〕竪穴建物跡を床面まで掘り下げた様子

写真1は,前号で紹介した竪穴建物跡の調査を進め,床面を検出し,付属施設を機能していた面まで掘り下げた段階の写真です。

竪穴建物の中央部は作業や生活をする床面(土間)として使われていたのですが,それを取り囲むように掘られた溝があります。この竪穴建物の壁際を周る溝が「周溝(または壁周溝)」です。

周溝にはいくつかの役割がありますが,この竪穴建物では,床面への雨水の侵入を防ぐ排水や,建物内の水はけをよくする湿気取りの役割があったと考えられます。

壁材痕の検出状況

〔写真2〕竪穴建物跡の壁材痕

写真2は,周溝を伴わない別の竪穴建物跡の写真で,壁に沿って黒い土が細長く伸びています。これは「壁材痕(へきざいこん)」といって,壁際の土留めに用いられた壁材の痕跡とみられます。

当時の竪穴建物の壁の高さは60cm以上あったと推定されますので,土壁の崩れ防止は安心して暮らすために重要なものでした。

竪穴建物によって付属施設に違いがみられのは,当時の暮らしぶりを考える上で興味深いところです。

発掘現場通信 第11号(令和3年1月4日更新)

前号から,竪穴建物の付属施設を紹介しています。第2弾は「カマド」です。

人気アニメの影響で竈(かまど)の神様がまつられた神社などが注目を集めていますね。

竪穴建物跡にカマドがつくられるようになるのは,古墳時代になってからです。調理や暖房など多くの役割を担うカマドは,古来よりとても大切なものでした。

SI22竪穴建物跡のカマド3

〔写真1〕SI22竪穴建物跡のカマド3

カマドは,竪穴建物の壁際に作り付けられ,煙は屋外へ排出する構造になっています。

SI22竪穴建物跡では,3基のカマドが見つかっていますが,写真1は南東隅にあるカマド3です。

写真中央の赤色化した部分が火を焚いた焚口(たきぐち)で,その周囲にはつぶれた状態の土器が並んでいます。

この並んだ土器は,カマド本体(覆い部分)の骨組みとして利用された土師器の甕で,土器の回りに粘土を付けて組み上げられました。

カマド3の燃焼部

〔写真2〕カマド3の燃焼部

写真2は,カマド3の燃焼部を後ろからみたものです。

中央右手にある棒状の灰色っぽい土器は,須恵器の高坏(「たかつき」,長い足のついた皿状の土器)の足の部分です。カマドで煮炊きする甕を下から支える支脚(しきゃく)として使われていたものとみられます。

中央左手の逆さに置かれた土器は高さが約16センチで,ほぼ完全な形を保っています。使わなくなったカマドを壊す際に,祈りやまじないの一つとして置かれたものと考えられます。

SI22竪穴建物跡のカマド1

〔写真3〕SI22竪穴建物跡のカマド1

写真3は,SI22で一番古いカマド1の写真です。

本体部分は壊されていますが,カマドで発生した煙を屋外に排出する「煙道(えんどう)」が残っています。

カマド1の煙道は,長さが約1.5mあり,地面をトンネル状に掘ってつくっています。

カマド1の煙道先端部

〔写真4〕煙道先端部で須恵器大甕片が出土した様子

煙道の先端付近からは,写真4のように須恵器の大甕の破片が出土しました。この土器は煙突部分のフタとして使われていた可能性が考えられます。

カマド1のような長いトンネルを掘って建物から離れた場所に煙を排出するカマドは,「長煙道」タイプと呼ばれます。

カマドの模式図

〔イラスト1〕カマドの模式図

イラスト1は,「長煙道」タイプで,覆い部分の骨組みに土器を利用したカマドの模式図です。

発掘調査の写真と見比べて,当時のカマドの様子を想像してみてください。

発掘現場通信 第12号(令和3年1月5日更新)

今回は,前回紹介したSI22以外の竪穴建物跡でみつかったカマドについてご紹介します。

SI24竪穴建物跡のカマド

〔写真1〕SI24竪穴建物跡のカマド

まずは,SI24竪穴建物跡のカマドです。カマドは,土器を骨組みに使わず,粘土だけでつくられています。

カマドの中央には,支脚が置かれていました。前号で紹介したSI22のような転用品ではなく,支脚専用としてつくられた筒形の土製品が使われています。

SI24竪穴建物跡のカマドの下面の様子

〔写真2〕SI24のカマドの下面の様子

写真2は,カマドの本体を除去した様子で,壁際には須恵器の甕片が敷いてありました。

須恵器片が敷かれた部分は,溝状に一度掘り返している場所なので,水が流れ込みやすくなっています。フタをするように大型の須恵器片を敷くことで,カマドに湿気が入り込むのを防ぐ工夫がなされています。

次は,SI25竪穴建物跡のカマドです。こちらのカマドでは,使われていた土器が残りのよい状態で出土しています。

SI25竪穴建物跡のカマド

〔写真3〕SI25竪穴建物跡のカマド

写真3をみると,カマドの両側に高さ約35センチの土師器の甕が逆向きに置かれているのがわかります。これは,カマドの袖(「そで」,両側の張り出している部分)の補強として使われたもので,ほぼ完全な形で出土しました。

また,カマドの中央からは土師器の甕が2個並んだ状態でみつかっており,煮炊き用としてカマドに据え付けられていたものの可能性が高いと考えられます(第11号のカマド模式図を参照)。

カマドを調査している様子

〔写真4〕カマドを調査している様子

今回の発掘調査では,当時のカマドの様子を知る上で,貴重な情報が得られました。

今後の整理作業では,建物内の設置場所や方向,カマドで発見された土器の年代や特徴など多方面から検討し,彦右エ門橋窯跡のカマドの変遷や機能などを明らかにしていきます。

発掘現場通信 第13号(令和3年1月8日更新)

第10号から続く竪穴建物シリーズですが,今回はSI29竪穴建物跡をご紹介します。

SI29は,調査区の南東隅に位置し,東西約3.9メートル,南北約5.8メートルで,長方形のような形をしています。

SI29竪穴建物跡の遺物出土状況

〔写真1〕SI29竪穴建物跡の遺物出土状況

写真1は,SI29を床面まで掘り下げた状況で,たくさんの遺物が出土しているのがわかります。須恵器の坏(つき)など形がよく残っているものも多く,建物が使われていた時期を考えるうえで貴重な資料になります。

SI29の排水イメージ

〔写真2〕SI29の排水ルートのイメージ

SI29で特徴的な付属施設としては,「外延溝(がいえんこう)」という建物外に延びる溝が挙げられます。この外延溝は,調査区外に広がるため一部しか確認できていませんが,地形的に低くなる南東方向に向かって延びています。

SI29では,写真2のように竪穴建物の壁際に周溝(壁周溝)が巡り,南東隅で外延溝とつながっています。床面への雨水の侵入を防ぐため,周溝や外延溝の底面の勾配を調整し,建物外に排水していたと考えられます。

SI29のカマド付近の様子

〔写真3〕SI29カマド付近の様子

さらに注目されるのは,周溝のフタとして瓦を利用している点です。建物南東に位置するカマド付近を中心に,周溝から11点の丸瓦を発見しています。

写真3はカマド付近の様子で,瓦が隙間無く並べられているのがわかります。周溝に瓦でフタをして,その上にカマドをつくることで,カマド部分でも排水のルートが確保されています。

瓦の出土状況を記録している様子

〔写真4〕瓦の枚数や位置を記録している様子

彦右エ門橋窯跡では,昨年度の調査により,8世紀後半から9世紀初め頃に瓦を生産していたことがわかっています。(昨年度の調査成果はこちら2019年度調査現地説明会資料(PDF:2,068KB)

SI29で発見された瓦は,不良品として出荷できなかったものを,施設の材料として転用したものと考えられます。

瓦を竪穴建物の施設の材料に利用するのは生産地ならではで,本遺跡の特徴がよく現れている痕跡といえます。

瓦の取り上げている様子

〔写真5〕瓦を慎重に取り上げている様子

発掘現場通信 第14号(令和3年1月26日更新)

第10号から続く竪穴建物シリーズですが,今回は「建物の機能(使われ方)」に注目してみたいと思います。

SI24竪穴建物跡

〔写真1〕SI24竪穴建物跡(南から)

写真1は調査区の中央で発見されたSI24竪穴建物跡です。SI24では,建物の機能を検討する上で重要な2つの痕跡が見つかりました。

SI24の粘土範囲

〔写真2〕SI24の粘土範囲

1つ目の痕跡は,大量の粘土です。竪穴建物の床面まで掘り下げたところ,写真2のように粘土が床面の大部分に広がっていました。

また,建物の東端からは,写真3のような粘土のかたまりもみつかっています。

粘土のかたまり

〔写真3〕SI24で発見された粘土のかたまり

2つ目の痕跡は,「ロクロピット」です。陶芸家がロクロと呼ばれる回転台を使って,粘土から食器や花瓶を作る映像を見たことがあるかと思います。

古代の土器をつくる工人も同じような道具を使っていました。その回転台を支える軸棒を据え付けていた穴がロクロピットです。

SI24のロクロピットロクロピットのイメージ図

〔写真4〕ロクロピットを半裁した様子 〔図1〕ロクロのイメージ図

写真4は,SI24の中央付近で発見されたロクロピットを半裁した状況です。中央部分は深さ約40センチで周囲より深くなっており,この部分に軸棒を据えていたと考えられます。

図1は,ロクロのイメージ図ですが,どのような方法でロクロを回していたのかなど,ロクロの構造については不明な点もあります。

この2つの痕跡から,SI24ではロクロを利用した土器づくりが行われていたと考えられ,土器の材料となる粘土が大量に発見されていることから,SI24は彦右エ門橋窯跡での須恵器作りの作業場(工房)であった可能性が考えられます。

竪穴建物の機能がわかったことで,当時の暮らしぶりや活動の様子が少しずつ明らかになってきました。

発掘現場通信 第15号(令和3年1月27日更新)

第10号から続く竪穴建物シリーズですが,最終号となる今回はSI25竪穴建物跡をご紹介します。

SI25は,今回発見された竪穴建物で最も北に位置し,1辺約3.7メートルの方形をしています。

SI25竪穴建物跡

〔写真1〕SI25竪穴建物跡(南から)

写真1は,SI25竪穴建物跡を床面付近まで掘り下げた状況の写真です。

建物の中央から南側にかけて,真っ黒い炭や赤く焼けた土がまとまった状態でみつかりました。

SI25の炭化材の広がり

〔写真2〕SI25炭化材の状況(西から)

写真2は西側からみたもので,炭の中には元々の木材の形がある程度わかるものもあります。

これらは,竪穴建物の柱や屋根の骨組みなどの建築部材が焼け落ちて建物内部に倒れたものと考えられます。

竪穴建物を解体する際に意図的に燃やす場合もありますが,土器などの生活の道具が残されていることや,カマドが使用時に近い状態をとどめていることから,SI25は火災にあった可能性が高いと考えられます。

火災の原因を特定することは難しいですが,不慮の失火なのか,放火や焼き討ちなのか,想像がふくらみますね。

炭化した木材の残存状況によっては,自然科学的な分析を行うことで、樹種や伐採された年代が推測でき,その結果から当時の木材利用の状況や建物が建てられた年代を推定できる場合もあります。

火災で焼け落ちた竪穴建物跡からは,当時の住まいの様子を知ることができる多くの情報が得られるので,今後の整理作業の成果が期待されます。

発掘現場通信 第16号(令和3年2月8日更新)

ここまで,発見された主な遺構・遺物を取り上げてきました。まだまだご紹介したいものもありますが,この辺りで調査状況の報告に戻ります。

今回は「航空写真」をご紹介します。

使用したドローン

〔写真1〕撮影に使ったドローン

今回の撮影はドローンを使い,プロのカメラマンに撮影してもらいました。

調査区遠景(北から)

〔写真2〕調査区遠景(北から)

航空写真は,周辺の地形や道路との位置関係,調査区の全体像などを記録することを目的に撮影します。

調査区全景

〔写真3〕調査区全景(真上から)

発見した遺構を掘り下げた状態で撮影するので,撮影は調査の終盤に行い,調査のひとつの区切りになります。

調査区遠景(南から)

〔写真4〕調査区遠景(南から)

航空写真は天候により大きな影響を受けますが,今回は気持ちの良い秋晴れの日に撮影することができ,遠くの山々や周囲の田園風景と相まってきれいな写真になりました。

昔は飛行機から撮影してもらったり,高さ5mほどの足場を組んだりして高い視点から写真を撮影していたので,以前に比べると簡単に短時間で撮影が行えるようになりました。

新しい技術を取り入れながら,発掘調査もより早くより安全に進化しています。

2.寺前遺跡(柴田町)

【基本情報】
所在地 柴田郡柴田町大字葉坂下道地
調査原因 ほ場整備事業
調査期間 令和2年7月13日~9月29日
調査主体 柴田町教育委員会
調査協力 宮城県教育委員会
調査面積 約875平方メートル

【調査概要】

寺前遺跡は,奈良・平安時代の散布地として登録されている遺跡です。今回の調査では,古墳時代の竪穴建物跡1棟のほか,時期不明の溝跡、縄文時代から平安時代の土器や中世の貨銭が見つかりました。

調査の結果,寺前遺跡は縄文時代から中世にかけての遺跡であること,遺跡の範囲が南側に約80メートル拡大することがわかりました。

発掘調査の様子

〔調査風景〕丘陵の裾部から低地部を調査しています(写真提供:柴田町教育委員会)

現地説明会

〔現地説明会〕近隣住民のかた向けに現地説明会を開催しました(写真提供:柴田町教育委員会)

竪穴建物跡の説明風景

〔現地説明会〕古墳時代の竪穴建物を説明している様子です(写真提供:柴田町教育委員会)

中学生の見学風景

〔見学風景〕船迫中学校の生徒が見学にきてくれました(写真提供:柴田町教育委員会)

3.南北原遺跡(加美町)

【基本情報】
所在地 加美郡加美町上狼塚字南北原
調査原因 農道改良工事
調査期間 令和2年6月1日~11月27日
調査主体 加美町教育委員会
調査協力 宮城県教育委員会
調査面積 約560平方メートル

【調査概要】

南北原遺跡は,名蓋川の河岸段丘上に位置する弥生時代から平安時代の集落です。調査は,平成30年から継続的に進めており,今年度は計画地中央の3区を調査しています。

3区では,古墳時代の竪穴建物跡1棟,奈良・平安時代の竪穴建物跡10棟,掘立柱建物跡5棟などを調査し,土師器,須恵器や鉄製品が出土しています。

3区北側の全景

〔調査区北側〕黒い四角形のような部分が竪穴建物跡です。異なる時期の建物跡が重なり合って発見されました(写真提供:加美町教育委員会)

竪穴建物跡の全景

〔奈良時代の竪穴建物跡〕1辺約5mで,北辺中央にカマド(調理場)があります(写真提供:加美町教育委員会)

カマドの詳細

〔カマド〕白色の粘土を使ってカマドを作っています(写真提供:加美町教育委員会)

土師器の出土状況

〔遺物の出土状況〕竪穴建物跡から須恵器の甕が出土しています(写真提供:加美町教育委員会)

4.源光遺跡(栗原市)

【基本情報】
所在地 栗原市築館伊豆
調査原因 市道拡幅工事
調査期間 令和2年8月1日~
調査主体 栗原市教育委員会
調査協力 宮城県教育委員会
調査面積 約3,480平方メートル

【調査概要】

源光遺跡は,築館丘陵から派生する丘陵上に位置する縄文時代・奈良時代~中世にかけての遺跡です。

今回の調査では,奈良・平安時代の竪穴建物跡・掘立柱建物跡が並んで見つかっており,土器や鉄器などが出土しています。竪穴建物跡には火災を受けたものもあります。

竪穴建物群

〔竪穴建物跡群〕3棟の竪穴建物跡が並んでいます。写真手前の竪穴建物跡は一辺が約8mの大型のものです(写真提供:栗原市教育委員会)

竪穴建物跡のカマド

〔竪穴建物跡のカマド〕カマドの袖の一部が残存しており,白色の粘土を使ってカマドを作っています(写真提供:栗原市教育委員会)

掘立柱建物跡

〔掘立柱建物跡〕4間以上×2間の建物跡で,人が立っているところに柱穴があります(写真提供:栗原市教育委員会)

お問い合わせ先

文化財課埋蔵文化財第一班

宮城県仙台市青葉区本町3丁目8番1号

電話番号:022-211-3684

ファックス番号:022-211-3693

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