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東日本大震災発生後,宮城県教育委員会としては,復興事業と埋蔵文化財保護を両立し,高台移転や復興道路などの復興事業に伴う発掘調査の円滑・迅速な実施に取り組んでまいりました。
(1)宮城県発掘調査基準の弾力的な運用
復興事業に限り,遺跡が壊される範囲(平面・深さ)のみを調査対象とします。これにより,盛土施工部分や下層の調査等を省略することが可能になるため,調査期間の短縮が見込まれます。
令和3年度に宮城県教育委員会が実施した発掘調査と,県内市町に協力をした発掘調査の状況を掲載しています。また、野外での発掘調査終了後に実施している、室内での整理作業の状況についても掲載します。
所在地 | 本吉郡南三陸町志津川字大久保 |
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調査原因 | 水尻川河川災害復旧工事 |
調査期間 | 令和元年9月9日~令和2年7月28日 |
調査主体 | 宮城県教育委員会 |
調査協力 | 南三陸町教育委員会 |
調査面積 | 約150平方メートル |
【調査概要】
発掘調査で遺跡から発見された遺構・遺物の情報や明らかになったことなどは、発掘調査報告書にまとめ公表します。整理作業はその発掘調査報告書を作るための作業であり、野外調査よりも長い期間を必要とする場合もあります。大久保貝塚の場合は、大量の遺物が出土したことから(整理用コンテナで1,000箱以上)、約1年間の野外調査に対して、3年以上の整理期間が必要となる見込みです。図(1)に大久保貝塚出土遺物の整理作業から発掘調査報告書の刊行までの大まかな流れを示しました。
図(1)
第1回目の今回は大久保貝塚から出土した土器の接合作業について紹介します。接合作業は、破片の状態で出土した土器を元の立体的な姿に復元する作業であり、器としての形や文様などの特徴を明らかにするとともに図面作成や写真撮影を行い、報告書に掲載できるようにするための工程の一つです。
写真(1)
大久保貝塚からは整理用箱約170箱分も縄文土器が出土しています。それらは、当時の人々が使って壊れたり、貝塚に捨てられてから土に埋まった後にも割れたりするため、多くは破片の状態で見つかります。写真は見つかった土器の一部をテーブルに広げているところです。
写真(2)
まずは大量の破片の中から、形状・文様の特徴・色合い・厚さなどが似ているものを集めてきます。出土地点が近いものを中心に、破片同士がくっ付くかどうか試してみて、付くことが分かった破片にはチョークで目印を付けたりします。
写真(3)
破片が揃ってきたら、破片をひとつずつ接着剤で接着していきます。立体的な姿にうまく組み上げていくのは、なかなかコツのいる作業です。場合によっては微調整を繰り返しながら、より正確に本来の形状を復元していきます。
写真(4)
写真(5)
写真(6)
これらの写真は完全に近い形まで復元できた土器です。写真(4)は深鉢と呼ばれる土器で、煮炊きに使われていました。写真(5)は貯蔵用と考えられる大型の壺で、上半部まで復元できました。写真(6)は盛り付け用の浅鉢と呼ばれる土器で、底を上にしています。表面に文様が描かれているのが分かります。
土器の形や文様は時代や地域によって様々です。そのため、出土した土器の特徴を知ることで、その遺跡の残された年代を知ることができます。大久保貝塚の土器は、その特徴から縄文時代晩期の後半に属すると考えられます。
接合作業は現在のところ全体の3分の1が終了しており、今年度の秋ごろまで続いていく予定です。
所在地 | 石巻市給分浜字中沢 |
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調査原因 | 県道石巻鮎川線給分浜復興道路事業 |
調査期間 | 令和3年6月21日~ |
調査主体 | 石巻市教育委員会 |
調査協力 | 宮城県教育委員会 |
調査面積 | 約94平方メートル |
【調査概要】
〔調査区周辺の様子(南から)〕調査は復興道路建設予定区内で実施しています。(写真提供:石巻市教育委員会)
〔調査区全景(上が東)〕全体の調査面積は約94平米になります。(写真提供:石巻市教育委員会)
〔作業風景〕縄文土器や石器を傷つけないように、竹べらなどの道具を使いながら慎重に取り上げていきます。(写真提供:石巻市教育委員会)
〔遺物出土状況〕土器が潰れた状態で出土しました。(写真提供:石巻市教育委員会)
〔出土した縄文土器〕付着していた土を取り除いた土器の表面には縄目の文様がくっきりと残っています。(写真提供:石巻市教育委員会)
所在地 | 黒川郡大衡村大衡字萱刈場ほか |
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調査原因 | 国道4号拡幅工事 |
調査期間 | 令和3年7月1日~ |
調査主体 | 宮城県教育委員会 |
調査協力 | 大衡村教育委員会 |
調査面積 | 調査中 |
【調査概要】
10月までに彦右エ門橋窯跡の調査を終了し、11月から大衡中学校東遺跡の発掘調査を開始しました。(写真1・2)
調査の結果、畑の畝の痕跡と考えられる幅20cm前後、深さ10~20cm程の小さな溝が、平行して20条みつかりました(小溝状遺構群)。溝の堆積土中には、青森県の十和田火山が915年頃に噴火した時のものとみられる火山灰が含まれていたことから(写真3黄線部分)、畑跡は平安時代以降のものと考えられます。青森で噴出した火山灰が宮城まで飛んでくるなんておどろきですね!
(図1:彦右エ門橋窯跡と大衡中学校東遺跡)
(図2:大衡中学校東遺跡の範囲)
(写真1:小溝状遺構群検出状況)
(写真2:完掘状況)
(写真3:確認された火山灰)
竪穴建物跡の中に流れ込んだ土を移植ベラなどで慎重に取り除き、床面まであらわしました(写真1)。
床面からは焼け落ちて炭化した屋根材がみつかりました。土器などの出土遺物が少ないことから、建物は不慮の火災で焼けたのではなく、あらかじめ家財を持ち出して、意図的に燃やされたと考えられます。引っ越しでもしたのでしょうか?
(写真1:竪穴建物跡完掘状況)
カマドは火をおこし、土器などを使って食材を煮炊きしたりする場所です(写真2/イラスト1)。
焚き口の両側には補強のため瓦が貼り付けられていました。瓦は当時、お寺や役所などの限られた場所でしか使われないものでしたが、彦右エ門橋窯跡は須恵器や瓦を生産していた場所だったため、ヒビやゆがみのある不良品を使うことができたとみられます。
(写真2:カマド/イラスト1:カマドの構造)
平坦な場所だけでなく斜面でも竪穴建物跡がみつかりました(写真3・4)。
(写真3:斜面上の竪穴建物跡の検出状況)
(写真4:完掘状況)
カマドとその周辺の様子です(写真5)。
この建物跡では、カマドの補強材に瓦ではなく土器が使われていました。屋外に煙を出すための煙道にも、底を抜いた土師器の甕をつなげて置いており、パイプとして使用していました。また、カマド脇のくぼみ(白線部分)からは、食器として使われた土器が多数みつかっています。
(写真5:カマドと土器)
竪穴建物跡は地面を掘りくぼめて壁と床をつくった建物です。昨年度(R2年度)の調査では数多くの竪穴建物跡が発見されましたが、隣接する今年度の調査区でも竪穴建物跡がみつかりました。
(写真1:昨年度発見された竪穴建物跡)
(写真2:竪穴建物跡の検出状況)
白線で囲んだ範囲が竪穴建物跡です。建物を覆う土を除去すると四角形を基調とした輪郭がみえてきました。(赤線より左側は覆土が残っているため輪郭がまだみえません。)
先行して赤線部分を掘り下げたところ大量の土器が出土しました。
なお、細長く突き出た青線部分は、カマドの煙を建物外に出すトンネル状の通り道(煙道)の輪郭です。
(写真3:竪穴建物跡の調査状況)
建物内に堆積した土を、土層観察のため十字の土手状に残しながら床面まで丁寧に掘り下げます。
さて、床面には何が残されているでしょうか?
(写真4:東西方向にのびる溝跡/写真5溝跡出土土器)
区画や排水の目的で掘り込まれたと考えられる溝跡がみつかりました。溝跡からは大量の土器が出土しており、出土地点が集中することや完形に近い土器が多いことなどから、これらは何らかの事情により一度にまとめて廃棄されたものと考えられます。
いよいよ調査も大詰めです。竪穴建物跡を完掘したあとの床面の様子、カマド等の建物内施設の構造など詳しくは次回以降にお伝えします。
調査開始から3ヶ月が経過し、みつかった遺構の掘り下げや、断面図の作成などの詳細な調査を行っています。
(写真1:土師器焼成遺構の検出状況)
白線で囲んだ範囲は、土師器焼成遺構(はじきしょうせいいこう)と呼ばれる土器を焼いた穴です。穴の中には使用後に周りから流入した濃い茶色の土が堆積していました。
(写真2:土師器焼成遺構の完掘状況)
堆積した土を取り除いた様子です。穴は円形とも四角形とも言えないいびつなかたちをしており、内部は土器を焼いた際の火熱により,赤やオレンジ色に変色しています。変色の度合いが強い箇所ほど高温で被熱しており、硬く焼けしまっています。
(写真3:小カッツァ)
小カッツァ(小型の草削り)は、発見された遺構の堆積土等を掘削する道具の一つです。調査では移植ベラや小カッツァなどを使って土を慎重に取り除きながら、各遺構が使われていた当時の姿を明らかにしていきます。
「カッツァ」=宮城の方言では引っ掻くことを「かっつぁぐ(引っ掻く)」と言うことから、このような名前がつけられました。
(写真4:掘立柱建物跡の柱穴検出状況)
掘立柱建物跡は地面に穴を掘って柱を立てた建物の跡です。柱穴や建物構造は下のイラストのようだったと考えられ、写真4の建物跡は6本の柱で屋根を支えていたことがわかります。写真では、柱穴一つ一つに二重丸の線が引かれていますが、内側の小さい○が柱、外側の大きな○は柱を立てるための掘方の輪郭です。
(イラスト1:掘立柱建物跡の構造イメージ)
今年度の調査が始まって二ヶ月ほどが経過しました。重機を使った表土除去作業が完了し、現在は遺構の検出作業を行っています。
(表土除去直後の検出作業:東から撮影)
重機で表土を除去した後、ジョレンやカッツァという道具を使い人力で地面を薄く丁寧に削ります。そうすると、土どうしの色、粒の大きさや混じり方の違いがみえてきます。
上の写真では、地面の色の濃淡がまだハッキリしていませんが、何度かきれいに地面を削っていくと下の写真のように線が引けるくらい明瞭になり、様々なかたちの範囲がみえてきました。
(検出作業終了後の様子:東から撮影*白線は写真上であとから引いたものです。)
こうした土の違いは、昔の人々が地面を掘ったのちに、周りとは異なる土が流れ込んだり、埋められたりしたことにより生じます。
土の違いによる線の重なりが多くみられますが、今後、この重なった土を上から順番に(新しい時代から)掘り下げていきます。
さて、これらは一体、何のために掘られたのでしょうか?住居跡か?排水溝か?はたまたゴミ捨て穴か?
次回は、掘り下げた状況をご覧いただけると思います。
是非、またみに来てください!
今年も大衡村彦右エ門橋窯跡の調査がはじまりました。
昨年、好評をいただいた「発掘現場通信」を今年も更新していきます!
どうぞよろしくお願いします。
(今年度の調査区位置:南から撮影)
彦右エ門橋窯跡では、これまでの調査で奈良時代の終わりから平安時代(約1200年前)頃の土器づくりにかかわる施設等の痕跡(遺構)が多数みつかっています。
今年度は令和元年度調査区(写真南側の緑枠部分)と令和2年度調査区(写真北側の赤枠部分)に挟まれた範囲(青枠部分)を調査します。
令和元年度調査区は丘陵下の低地部分にあたり,多数の土師器焼成遺構(土師器を焼いた穴)や古代の河川跡などがみつかりました。(令和元年度成果概要(PDF:2,068KB))
令和2年度調査区は丘陵上の平坦面にあって、ここでは土師器焼成遺構のほか、多数の竪穴建物跡がみつかりました。建物跡からは、土器づくりに使われる粘土や、土器の整形に使われるロクロを据える穴などがみつかっており、建物は土器の製作工房と考えられました。(令和2年度成果概要(PDF:2,482KB))
今回の調査区は、丘陵の平坦面と低地部分に挟まれた斜面にあたります。この遺跡がどのような使われ方をした場であったのか、過去の調査成果を活かしながらこれからの調査で明らかにしていきたいと思います。
なお、遺跡名は窯跡となっていますが、窯跡そのものはこれまで調査した範囲ではみつかっていません。地形や地表面で拾われている土器の散布状況などから、窯跡は写真青枠の左側(丘陵西端)の林の斜面に存在していると考えられます。
さあ、今年はどんな発見があるのか・・・。
調査の進捗状況や調査の成果を、写真を交えながら紹介していきますので、是非、またご来訪ください!
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