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掲載日:2012年9月10日

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宮城仙南の農業用水利施設と歴史~黒沢尻用水路~

黒沢尻用水路

黒沢尻用水路の由来は,安永年間(1771年~1781年)より以前に永野と矢附の用水として,釜沢の奥地から流れる黒沢川の朴の木前で堰上げ利用していて,黒沢川までさかのぼることになったため名付けられたと言われています。黒沢川は白雀沢,合沢,登布谷地沢という前川境山地を水源とする川で,その川尻が用水路に利用されていました。黒沢尻用水路の起源は極めて古く,室町時代から存在していたといわれています。

黒沢尻用水路は,蔵王の豊富な水源を活用した用水路で,現在の蔵王町・大河原町・村田町(旧円田村,宮村,金ヶ瀬村,大河原村,沼辺村)にまたがる水路延長30km 受益地700ha、関係農家1,300戸にわたります。

猫田第1頭首上
猫田第1頭首工(藪川上流より撮影)

猫田第2頭首上
猫田第2頭首工(藪川下流より撮影)

蔵王町を流れる黒沢尻用水
蔵王町を流れる黒沢尻用水(蔵王町 定谷口)

田園を流れる黒沢尻用水
田園を流れる黒沢尻用水(蔵王町)

大高山神社前を流れる黒沢尻用水
大高山神社前を流れる黒沢尻用水(大河原町)

住宅街の中を流れる黒沢尻用水
住宅街の中を流れる黒沢尻用水(大河原町)

大河原町(ほ場整備 金ヶ瀬地区)の航空写真
大河原町(ほ場整備 金ヶ瀬地区)の航空写真(昭和61年撮影)

ほ場整備 金ヶ瀬地区、金ヶ瀬集団転作実践組合による大豆の培土作業
ほ場整備 金ヶ瀬地区,金ヶ瀬集団転作実践組合による大豆の培土作業(大河原町)

黒沢尻用水路の計画から完成までの経緯

藩政時代

安永「風土記御用書出」によれば,藩政時代に刈田郡宮村向山定谷口に築かれた堰があり,定谷口堰と言いました。現在の猫田頭首工の前身にあたります。
同地点で松川の水を堰上げ宮村(現蔵王町),平村(注1),大河原村(現大河原町),沼辺村(現村田町)の4ヶ村への入合用水で,溜高(注2)は249貫文(注3)余で当時では柴田郡,刈田郡の最大用水堰でした。これができるまでは,平村,大河原村の2ヶ村の用水堤で,堤村(注4)の村半分を占めていた堤(ため池)は不要となり開発されて水田となりました.

注釈1:平村(現 大河原町)は今の金ヶ瀬中学校あたりから新開と薬師堂を結ぶ地域あたりまで広がっていました。

注釈2:溜高(用水面積)は,県内(藩内)の各村でも貫高制で表記されています。鎌倉時代・室町時代には、田地の面積は、その田で収穫することのできる平均の米の量を通貨に換算し「貫」を単位として表されました。これを貫高(かんだか)といい、それを税収の基準にする土地制度を貫高制と呼びます。同じ貫数でも土地の条件などによって実際の面積は異なることになります。これは、米で納めるべき年貢を銭で代納する「分銭」に由来するもので、武家の知行高も貫で表わされました。

注釈3:米俵1俵=16貫(1貫=3.75kg),現在の米の収量は8俵~10俵/10aですが,藩政から明治時代までは1~2俵/10a前後だったようです。

注釈4:現 大河原町の西部に位置し,蔵王町宮に隣接する。村名の由来は村の東半分が堤(ため池)になっており,平村や大河原村の用水に利用されていたので,「堤」と呼称されるようになりました。定谷口に堰ができたことのより,ため池は不要になり,全域干拓して田地に変わりました。

明治22年(1889年)

宮村ほか1町2ヶ村水利組合を組織、管理者に大河原町長が就任し,堰,用水路の整備工事を行いました。

明治37年(1904年)

刈田郡円田村朴の木前に江戸期から築造されていた黒沢堰利水の永野・八附両組合と合併し,黒沢尻用水路普通水利組合を設立しました。

これにより円田村・宮村・金ヶ瀬村・大河原町・沼辺村の5ヶ町村の水利組合となり,管理者に代々柴田郡長が就任しました。

この水利組合は,澄川の水を水路に引き濁川の上を掛樋で渡し,遠刈田温泉に給水し,残りを松川左岸に沿って小妻坂に導水し,宮村猫田と国道上流で松川の水を加え,宮,金ヶ瀬,大河原と沼辺村南部耕地を潅漑しました。

明治43年(1910年)

明治43年(1910年)旧7月7日から降り出した雨は,11日間降り続き,遂に豪雨に変わりました。このため,白石川を始め大小河川が氾濫して大水害を引き起こし,この豪雨によって松川も氾濫し,黒沢尻用水の宮村向山水路が寸断され,砂礫の山となりました。この秋,水路の大改修を施行し,16カ所の補修を完了しました。

大正14年(1925年)

大正14年(1925年)9月に隣接の村田町外2ヶ村から用水分水の要請を受け,水源を同じくする澄川用水との水利権の協定を結びました。そして,澄川普通水利組合が築造した澄川取水口から,棚村(注5)のいぼ岩分水まで共通水路とし,共同管理にしました。同時に,直営により宮村字猫田地内より下流改修工事を行いました。

注釈5:棚村は蔵王町に棚村という地名で残っています。疣岩から蔵王町役場方面に800mいくと県道25号線沿いにあります。

昭和7年(1932年)

昭和7年(1932年)2月,水源地涵養のため上流の山を保安林に指定しています。

昭和9年(1934年)

昭和9年12月には,この澄川普通水利組合と遠刈田棚村間の共通水路維持管理協定を締結し,水質・水量の保全を図りました。

昭和14年(1939年)

昭和14年電力会社との契約により澄川取水口よりいぼ岩分水水槽において発電所の放流水を受け,さらに,下流松川橋下の矢附取水口で曲竹放流水を受けて,用水としています。この水路で矢附地区を潅漑し,残水を藪川に注ぎ,藪川の水と合流したものを猫田第一堰で堰上げ,さらに残水を猫田第二堰で取水しています。

昭和21年(1946年)

昭和21年には,雪害による災害復旧工事を宮村字侭下より大河原町入口に至る延長4,286mの水路工事を行っています。

昭和34年(1959年)

昭和34年(1959年)3月5日,青木堀の水争いが起こり,西在と金ヶ瀬の農民が橋本地内で衝突,流血寸前,警察の出動でおさまりました。

昭和50年(1975年)

昭和50年(1975年)6月,大河原地区県営かんがい排水事業を着工しました。

昭和55年(1980年) 平成3年(1991年)

昭和55年(1980)から,用水路の改修に取組み,平成3年(1991)をもって完了しました。

観光地~周辺のみどころ・よりどころ~情報

  • 遠刈田温泉
    村田ICから車で30分「蔵王町 遠刈田温泉」
  • 一目千本桜「大河原桜まつり」
    荘厳な蔵王連峰を背景に咲き乱れる、ソメイヨシノを中心とした桜並木「一目千本桜」は大河原町・柴田町のシンボル的存在。大正12年に、大河原町出身の高山開治郎氏の寄贈により、1,000本余の桜を植樹。4月中旬頃には県内外から毎年たくさんの観光客が訪れます。平成2年、(財)日本さくらの会より「さくらの名所百選の地」に選ばれました。
    大河原駅より徒歩2分「白石川河川敷」
  • 「大河原夏祭り」
    大河原の夏の風物詩といえば、恒例「おおがわら夏まつり」ですが、まつりを締めくくる花火大会は必見です。平成18年は8月5日(土曜日)に開催されました。
    大河原駅より徒歩2分「白石川河川敷」
  • 白鳥観察会
    大河原の冬の風物詩と言えば、毎年シベリアから訪れるたくさんの白鳥です。最大で500羽を超す白鳥が大河原河川公園に飛来します。
    大河原駅より徒歩7分「大河原河川公園」
  • 「おおがわら天然温泉 いい湯」
    「~とんとんの丘~もちぶた館」
    大河原駅より車で5分(約4km)
  • 大高山神社
    本殿は元禄の建物で、正応6年銘(鎌倉時代中期)の鰐口は東北最古のものとして国指定の重要文化財となっています。
    大河原駅より車で5分(約4km)

地場産品

  • 味噌醤油
    地元の醸造会社で製造しています。
  • 銘菓「萩の月」
    仙台銘菓として全国的に有名。
  • もち豚
    豚肉のブランド名で全国的には『和豚もちぶた』東北地方では『みちのくもち豚』、地元では『仙南もち豚』という名前でも販売されています。
    もちぶた館で食べれます。

参考文献・図書

  1. 刈田郡教育会:刈田郡史(復刻版),名著出版(1972年)
  2. 柴田郡教育委員会:柴田郡史(復刻版),名著出版(1972年)
  3. 大河原町史編纂委員会:大河原町史 諸史編,p426-430(1980年)
  4. 澄川・黒沢尻用水路 計画調整班綴(宮城県大河原地方振興事務所 永年保存)
  5. 宮城県土地改良史 宮城県土地改良史編纂委員会(平成6年)

お問い合わせ先

大河原地方振興事務所 農業農村整備部計画調整班

柴田郡大河原町字南129-1

電話番号:0224-53-2639

ファックス番号:0224-53-3071

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