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掲載日:2023年3月29日

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内川水物語~大堰の歴史~

時代は1591年(天正19年),伊達政宗が居城を米沢から岩出山に移し,岩出山城下に一の構,二の構と称して土塁を積んで敵の防御に備えることになります。その一の構の内側に江合川から分かれた流れがあったことから,この流れが「内川」と呼ばれるようになりました。この内川を二の構の防備に利用し,その流水を堀に引き込んだものとみられています。

そして,現在の岩出山大橋の上流付近に用水路に水を引き込むために堅固な木造の取入施設が作られました。この施設が巨大であったことから「大堰」の名が付けられたといわれています。

ここでは,内川の取水施設である「大堰」の歴史についてお話しします。

江戸時代

江戸時代,大堰は仙台藩の代官によって管理され,関係人,村肝入が維持工事を行っていました。これは大堰から取水した内川の水が農業用だけでなく生活用水や防火用水などに使われていたためです。維持管理では農民が年貢米のほかに道路,堤防,橋梁,水路の土砂上げなどの建設修繕のため賦役や杭や縄の納入なども義務とされており,人夫として駆り出されていました。

明治時代

管理者の変遷

戊辰戦争後,廃藩置県により仙台藩は廃止され,大堰は宮城県と水沢県(現在の宮城県北部・岩手県南部)両県土木課の管理となりました。

その後,1876年(明治9年)に水沢県玉造郡(現在の大崎市鳴子温泉・岩出山・古川西部)も宮城県に編入されることになったことから関係町村長が大堰を管理するようになりました。

その後,1887年(明治20年)に施行された市町村会法により,志田玉造郡長が管理することになりました。更に,その2年後の1889年(明治22年)には,新たな町村制により,関係町村の事業として組合を創設して管理するように定められ,この組合として1891年(明治24年)に大堰水利組合が組織され,1914年(大正3年)まで岩出山町長によって管理されました。

明治時代の旧取入水門

明治42年までの大堰(写真提供:大崎土地改良区)

飢饉と新設工事

明治後半の1902年(明治35年)と1905年(明治38年)に東北地方は大凶作に見舞われました。中でも明治38年は「天明・天保の飢饉」以来と称されるほどの大規模な凶作でありました。この大凶作は,これまでたびたび東北地方の太平洋側に被害をもたらした「やませ」とよばれるオホーツク海高気圧から発生した冷涼な東寄りの風によるもので,長雨と低温に見舞われました。この年,宮城県は米が著しい減収となり,前年と比べて9割近い減収となりました。このため,米価が高騰し窮民が増大することになりました。その数は,県人口の約3割超になったといわれています。

この凶作で江合川上流住民の生活も著しく困窮する事態となり,住民の中で木材を換金して生活の支えにしようと江合川流域の森林の濫伐が起こったようです。このことが影響したのか,その後,大雨のたびに江合川が暴れるようになり,その都度被災した堰を復旧しなければならず,復旧に必要な費用も膨大になったようです。

このような惨状を目の当たりにして,管理者代表である岩出山町長は,洪水でも壊れない取入堰に造り変えなければならないと強い危機感を抱いていました。思案の結果,川の流れの変動が少ない上流の一栗村牛ノ瀬付近に取入口を新設することを計画しました。

この計画は,大凶作の2年後,1907年(明治40年)に工事着工することになり,1910年(明治43年)に完成しました。

明治後期に完成した水門

明治43年完成の大堰(写真出典:『宮城県土地改良史』)

大正時代

コンクリート堰への改修

明治年間の終わりに新たに造成された大堰は,1914年(大正3年)から1926年(大正15年)まで玉造郡長が管理していました。取水位置を上流に移設したので河川からの取水は以前より安定しましたが,年月が経つと度々破損を起こすようになり,災害復旧・維持管理費用の増大が目立つようになりました。

より頑丈な施設に出来ないものかと考えていた矢先の1921年(大正10年)に江合川で大洪水が発生し,堰堤の一部が破壊され流失し内川への取水が出来ない事態になりました。

これを機にコンクリート造の堰造りが計画されました。

コンクリートで頑丈な堰を造るという計画は,大堰の利水者のために考えられた計画です。当時から大堰の下流において江合川から取水している利水者は,大堰のそれを上回る数で,水田面積も4,800haに及んでおり,下流受益者との了解を取り付け,工事が始まることになりました。1921年(大正10年)玉造,志田,遠田の三郡が協力し,コンクリートによる堰堤337m,幅3m,高さ2mの土砂吐水門3門を備えた江合川本流の大堰堤が1922年(大正11年)に見事完成しました。

大正11年に完成した取入堰

大正11年完成の大堰(写真提供:大崎土地改良区)

昭和時代

度重なる災害と復旧工事

1926年(大正15年)から1952年(昭和27年)までの大堰管理者は岩出山町長が担いました。

大正年間に玉石コンクリート堰堤に改築された大堰は以前より安定して取水を続けていましたが,またしても部分的な破損が見られるようになり,取水の不安を感じるようになりました。水利組合は,1933年(昭和7年)本堰堤の決壊に備えるために,堰堤の第二の床留として,延長250mの副堰堤並びに幅1.8mの角落し堰7門,さらには漁業関係者から申し入れのあった魚道も同時に設置しました。これで,本堰堤の決壊の心配も払しょくされ,安定した取水が保証されることになったと関係者一同安堵することになりました。

しかし,戦後間もない1947年(昭和22年)の9月,全国を襲ったカスリーン台風により,堰施設は二十有余年足らずでもろくも破壊されてしまいました。水利組合は応急策として取入口の補強工事を行い,かろうじて翌春の取水が出来るようにしました。

ところが,1948年(昭和23年)の9月,本土に上陸したアイオン台風,1949年(昭和24年)6月の豪雨で取水口は取水不可能なほどに破壊されてしまいました。

ここまでの事態となると,本格的な災害復旧工事の必要に迫られ,その計画を急ぐことになりました。関係者の努力で計画自体はやっとまとまったのですが,その計画によると総工費は膨大で,水利組合が賄える費用ではありませんでした。水利組合は,協議を重ね,最終的に県営事業による救済を県議会に誓願することにしました。

時の県知事は,大崎地方3千軒もの農家の死活問題であると捉え,復旧事業は,県営事業として施行されることになりました。

1949年(昭和24年)の9月に総事業費2千320万円をもって起工し,1951年(昭和26年)の3月に完成しました。この新堰堤は,洪水の実体を勘案し,種々調査検討の結果,洪水量毎秒2,000tとし,アーチ形コンクリート堰堤を築造しました。この堰堤の延長164.4m及び既設部分の修築100.5mを施工しました。この新堰堤完成後は,洪水に際しても昔日のような惨禍を見ることがなくなりました。

その後,大堰の管理は1952年(昭和27年)の土地改良法の施行に伴い発足した岩出山大堰土地改良区が大堰水利組合から引き継ぐことになりました。

しかし,この施設も徐々に老朽化し,施設を管理する土地改良区としては,またしても老朽化施設の更新を検討しなければならない時期を迎えました。

この検討は数年続いていましたが,巨額の工事費を土地改良区単独で捻出出来ないことは明白でしたが,補助事業として採択される見込みもつかず八方塞がりの状況になっていました。その折,当地と宮崎を結ぶ開拓道路の竣工式に出席していた仙台農地事務局長が当地農民の窮状を知り,局長自ら補助事業としての採択について尽力したいとの申し出を受けたのです。これは願ってもない提案で,役員はこれを百人力に仙台農地事務局および県庁を訪ね,大堰改修の陳情を行いました。また,理事長は地元選出の国会議員を介して農林省にも陳情を行いました。これらの努力により,1962年(昭和37年)に特別団体かんがい排水事業の新規地区として採択が決定しました。

この改修事業はコンクリート固定堰で延長75.75m,高さ2.64m,可動堰延長32.5m,土砂吐水門1門,洪水吐水門2門,取入水門一式,そして水路改修として,導水路にあたる開水路ならびに隧道巻立という内容で,1967年(昭和42年)の3月に完成に至りました。

平成時代以降

国営事業による改修

1987年(昭和62年)から国営かんがい排水事業大崎西部地区が始まります。大崎西部地区は,北上川水系江合川と鳴瀬川水系多田川に囲まれた4,000haに及ぶ地域で,大崎耕土と称される県内有数の穀倉地帯の主要部分を受益地としています。前述のとおり,当地のかんがい用水は,江合川の大堰と小河川などから供給してきましたが,それは決して潤沢な水量であったとはいえなかったのです。

特に,春から夏にかけて降水量が少ない年は,稲作に必要な用水を賄えない事態になりました。そこで大崎耕土では,限られた水を最大限に活かそうと,上流で使った用水をその下流の水田で再利用するために水路に杭を打って板や土嚢で堰上げる施設をいたるところに造って何度も何度も繰り返し用水に利用しました。

また,大干ばつともなると伝統的に引き継がれた「番水」による水利調整が土地改良区を中心に行われていました。番水には,用水水系のうち一定のまとまったブロックごとに順番を決めて配水する方法,細かく時間を区切って配水する方法,そして取水源から数日の間隔を定めて取水する方法などが水系ごとに定められています。

このように大崎耕土では限りある水を有効に使う努力が続けられてきました。現在でも大干ばつ等で用水不足に陥った場合には,番水という巧みな水管理システムが継承されています。

用水不足の原因は,河川からの取水量が不足していたばかりではなく,基幹水路の大部分が石やコンクリートで護岸されていなかったことにもよります。

また,多田川に隣接する農地は,排水不良の湿田地帯で,田んぼで大豆や麦の転作をしたいといった高度利用や機械化して合理的な営農を目指したいという農家の要望を受け入れられない状況でした。

このような懸案を解決するため国営かんがい排水事業が始まりました。本事業では,用水量を確保するため,ダムを築造して用水供給の安定を図り,幹線水路の新設や改修により用水系統の再編を行うとともに,低位部の湛水被害を解消するため排水ポンプや排水路の新設や改修を行いました。

大堰もこの事業で改修されることになり,フィックスドタイプ半可動堰で堰長268.4m,堰高2.6m,洪水吐3門を併せて整備され,工事は平成15年秋9月に着工して平成17年11月に完成し現在の姿に生まれ変わりました。

大堰頭首工

平成17年完成の大堰

お問い合わせ先

北部地方振興事務所 農業農村整備部計画調整班

大崎市古川旭四丁目1番1号
大崎合同庁舎4階東側

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