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南原は現在の陸羽東線中山平温泉駅の西南西約1.2km,大谷川の南の段丘上に広がる平地です。現在は,「国営かんがい排水事業」で造成された岩堂沢ダムの管理道路が通過して水田が広がる大地となっておりますが,近世までは人家のない荒れ地でした。
現在の南原集落の農村風景
天正19年(1591),伊達政宗が米沢城から岩出山城に転封された際,新たな領地には野谷地や荒れ地が多くありました。
同じ頃,江戸では急激に人口が膨れていたため,仙台藩は米を販売して藩経済の発展を図ろうと新田開発に大いに取り組もうとしました。
中山地区南原集落に新田開発の波が押し寄せてきたのは寛永の頃(1630年代)で,藩が中山を羽前街道(最上街道とも呼ばれ,仙台藩・庄内藩を隔てる奥羽山脈を越える吉岡宿から最上郡の舟形宿までの区間。)の宿駅(交通の要地にあって,宿泊のための設備や輸送に携わる人馬を有した集落。鎌倉時代以降に発達し江戸時代には宿場町となる。)にしようと計画したことが始まりとなっています。
宿駅は藩境の警備・交通運輸上の要所でしたが,それまで尿前駅から西側には人家がほとんどなく,中山地区には設けることができなかったのです。
そこで,伊達政宗公は「中山を住居と定める者は,たとえ重罪たりともその罪を免除する」という表札を立て,居住人を募りました。その結果,百姓6戸が住み着き,寛永末には遊佐氏七代平左衛門宣次が焼石亦(やけいしまた),星沼,陳ケ森(じんがもり)に新田開発を企て藩に願い出て,次いで南原穴堰の工事に着手しました。
正保(1644~47)の頃には,さらに中山に住む百姓が増加し,宿泊のための設備や輸送に携わる人馬に事欠かないようになり,平左衛門宣次が宿駅設置を仙台藩2代目藩主忠宗公に願い出て中山宿駅が設置されました。
中山の新田開発とそのための用水確保としての南原穴堰の工事は鳴子の遊佐一族が中心となり手掛けました。
鳴子の遊佐一族の先祖は代々,出羽国飽海(あくみ)郡遊佐(ゆざ)郷(現在の山形県北西部)に住んでいたようです。
初代の遊佐勘解由宣春は大崎氏の家中であり,鳴子の尿前小屋館の番所(関所)に居住していたのでしょう。その後伊達領になってもそのまま任につき肝入,検断を務めてきたようです。
伊達藩は21郡970ヶ村からなっており領内は4区域に分けられ,各区域に郡奉行(こおりぶぎょう)が置かれていました。郡奉行は藩の民生・財政を司る出入司(しゅつにゅうつかさ)の支配下にあり,郡奉行の下に代官が配置され,代官は郡村に駐在しました。郡村の有力な百姓を大肝入(おおきもいり),肝入,検断(けんだん),組頭,御判肝入(ごはんきもいり)などの村役人に任命しました。大肝入は各代官区に置かれ,肝入は各村に置かれ,検断は宿駅に置かれました。
遊佐一族は藩政時代を通じて肝入・検断を務めた極めて稀な例となっています。ここから遊佐家の地位がいかに鳴子村で堅個なもので権勢を誇ったかが窺い知れます。天保14年(1843)の遊佐家第17代遊佐甚之丞の書上によれば,6代平八郎宣重は藩の御用馬を年々献上し,中山を宿駅にすべく努力し,新たな百姓6戸を立て,7代平左衛門宣次は今回の水物語の中心人物で,中山地区の新田開発と南原穴堰の工事を行いました。
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