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市川橋遺跡は、奈良・平安時代の陸奥国府・多賀城跡の南から西にかけて広がる遺跡です。遺跡周辺では、これまでに多賀城市教育委員会と宮城県教育委員会によって、多賀城跡の南側を中心に、数多くの発掘調査が行なわれています。それらの場所では古墳時代の集落跡、奈良・平安時代の道路跡や建物跡などが発見され、土器や瓦をはじめ多種多様な遺物が出土しています。
今回の調査は、名古曾川遊水池の造成工事に先立って実施したものです。調査区の位置は、これまで発掘例が少なかった多賀城跡の西側で、多賀城跡西門の外側にあたります。調査の結果、ここでも古墳時代や奈良時代の集落跡が発見されました。また、平安時代以後についても土器埋設遺構や溝跡、畑跡などの遺構がみつかっています。遺物も土器を中心に多く出土しており、今までよくわからなかったこの場所の様子が明らかになってきました。
まず、これまでの調査成果から、調査区周辺(多賀城跡の南側と南西部)の様子を時代別にみてみましょう。
調査区南側の砂押川をはさんだ山王遺跡八幡地区で、古墳時代中期(5世紀頃)と後期(7世紀頃)の竪穴住居跡が発見されています。後期の竪穴住居跡は100軒以上もあり、近くを流れていた河川跡からは土器のほか、木製椀・櫛・下駄・鋤・鍬など、当時の生活用品や農具などがたくさん出土しました。八幡地区は周囲の低湿地よりやや標高が高く、こうした微高地には多賀城の創建以前から大きな集落が営まれていたようです。
8世紀の初めころ、調査区の東の丘陵に、陸奥国を治める役所として多賀城がつくられます。その南側の一帯は、役所の雑用に従事する人など多賀城と関係の深い人々の居住域となっていたようです。市川橋遺跡市川地区や山王遺跡八幡地区では、掘立柱建物跡や竪穴住居跡などが発見されており、居住域を区画する溝跡や塀跡もみられます。また、当時の一般集落にはあまりみられない硯や木簡、漆紙文書などの遺物も出土しています。
8世紀の後半ころから、多賀城の南側の一帯には、東西・南北方向の道路が順次整備され、平安時代の9世紀には碁盤の目のように区画された町並みが形成されます。区割りされた敷地内には多くの掘立柱建物が立ち並び、大勢の人々が居住していました。なかでも、メインストリ-トの東西大路に面した敷地は、多賀城の国司など身分の高い人々の邸宅とみられ、当時の高級品である青磁などの輸入陶磁器や、国産の施釉陶器(釉薬をかけた陶器)などが数多く出土しています。
竪穴住居跡、掘立柱建物跡、土器埋設遺構、溝跡、畑跡などが発見されました。調査区内の地形は、中央部の標高がやや高く、住居跡や建物跡、土器埋設遺構はそこに集中しています。また、南側は標高が低く湿地状になっています。以下、時代別に説明します。
竪穴住居跡が4軒(住居跡1~4)みつかりました。竪穴住居とは、地面を掘り込んで壁と床をつくり、その中に柱を立てて屋根をのせた住居です。発見した竪穴住居跡は、平面形が一辺4.5~6.2mの四角い形をしています。また、住居跡の方向は、真北に対して東に傾いています。屋根を支えた柱は4本で、北側の壁には炊事のためのカマドや、貯蔵穴がつくられていました。年代は、出土遺物から古墳時代後期(7世紀頃)とみられます。この時代の住居跡は、砂押川の南側ではたくさんみつかっていましたが、今回の調査で、川をはさんだ北側の微高地にも集落があったことがわかりました。
6軒の竪穴住居跡(住居跡5~10)と、それらを囲む溝跡(溝跡1)がみつかりました。住居のつくり方は、古墳時代とほぼ同じですが、規模が小さく、一辺の長さは3.5~5.0mです。方向も、真北に近い方向をしています。また、カマドが東側の壁につくられたもの(住居跡9)もみられます。
溝跡1は、住居跡のある微高地を逆「コ」字形に囲むようにのびています。幅が1.5m、深さが0.6mほどあり、約100m分が検出されました。出土遺物などから、この時代の集落を囲んでいたと考えられます。奈良時代についても、多賀城の南側以外に集落があったことがわかりました。
掘立柱建物跡2棟、土器埋設遺構4基(試掘調査の時に2基)、溝跡4条のほか、畑跡などがみつかりました。掘立柱建物跡はすべて小規模で、大きい建物跡はありません。柱穴も直径40cm以下の小さいものがほとんどです。
土器埋設遺構は、いずれも2個の土師器甕の口を合わせて(合わせ口)、横に寝かせて埋めたものです。口径22cm、高さ30cmほどの甕が使われています。こうした土器埋設遺構は、今まで多賀城の南側で20基以上みつかっており、祭祀的な行為に伴うものと考えられています。調査区の南側では、湿地へ排水をしていたと考えられる幅1.0~1.5mの溝跡が、多くみつかっています。このうち溝跡2~5が、出土した遺物などから平安時代のものとみられます。なお、道路の側溝と特定できるような溝跡は、今回は検出されませんでした。調査区内を縦横に走る小溝が、畑跡です。小溝の規模は大きいもので、長さが24.0m、幅が0.3m、深さが0.2mほどあります。上で述べた遺構のうち、土器埋設遺構と溝跡は9~10世紀前半の遺構、畑跡は10世紀後半以後のものとみられます。掘立柱建物跡については正確な年代は不明です。
9~10世紀前半ころ、多賀城の南側には町並みが形成されていました。それにくらべると、多賀城西門のそばとはいえ、今回の調査区には時埋設以遺構以外に目立つ遺構がなく、やや閑散としていたようです。これは、近くに川が流れていて、湿地のような部分もあり、大勢の人々が住むには適さなかったからと思われます。また、10世紀後半以後には畑が営まれ、耕作域になっています。
土師器、須恵器といった多数の土器のほか、瓦や石製品などがあります。
土師器は、800℃くらいの低温で焼かれた赤褐色や黄褐色の比較的やわらかい焼き物です。ロクロを使ってつくられたものと、そうでないものとがあります。食べ物を盛った坏・高坏や、調理や貯蔵に使われた甕・甑などが出土しています。
須恵器はや灰色の硬い焼き物で、「窯」の中で1000℃以上の高温で焼かれた土器です。ロクロを使ってつくられています。坏や壷のほか、坏に把手のついた双耳坏がみつかりました。
瓦は、多賀城内の建物にふかれていた平瓦や丸瓦が出土しています。なかには文様を描いて、建物の軒先をかざった軒平瓦や軒丸瓦もあります。また、「伊」「矢」といった文字を刻印した瓦もみられます。
石製品では、と石や黒曜石の剥片が出土しています。
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