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三十三間堂官衙遺跡は亘理町逢隈下郡字椿山に所在します。遺跡はJR常磐線逢隈駅の西方、標高約20~40mの丘陵東斜面に位置し、遺跡の面積は東西約500m、南北約750mで約25haにも及びます。遺跡のある丘陵は西側は急な崖になっていますが、東側は緩やかな斜面で、東側から入り込む沢によって大きく北地区と南地区に分かれています。
遺跡は古くから丘陵平坦部に礎石が整然と並ぶことから注目を集めていましたが、昭和61~63年(1986~1988年)に宮城県教育委員会が行った調査の結果、
などのことが明らかになりました。また、遺跡の保存状態も全国的に見ても良好であることもわかりました。
このような調査結果から、平成4年(1992年)に遺跡の約半分に当たる12haが国指定史跡になり、遺跡名も三十三間堂遺跡から三十三間堂官衙遺跡になりました。以後、亘理町は順次、指定区域の公有化を行い、平成10年度に完了しています。そして、平成14年度からは遺跡の環境整備を行うため計画的に発掘調査を行っており、調査結果を反映させたいと考えております。
今年度の調査は第一次5カ年計画の2年目にあたります。調査区は北地区実務官衙域の中心部である郡庁院で、中心的な建物の正殿、脇殿の他、区画施設の塀跡、南門などの主要な遺構の位置、形態、規模、変遷等を確認し、郡庁院の構造を明らかにすることを目的としました。なお、昨年度は南門付近(約700平方メートル)を調査しましたが、時間的制約から調査途中で終了したため、今年度は昨年度の調査区を含めて調査しています。調査面積は約1800平方メートルです。
今回、掘立柱建物跡、八脚門、塀跡、土採り穴、整地層などを発見しました。このうち掘立柱建物跡は、これまでの調査成果や建物の特徴などから郡庁院の中心となる正殿などの主要な建物と、正殿などと同じ頃に建っていたと推定される建物跡です。また、土器などの遺物は南門付近の土採り穴や整地層、表土から破片が少量出土しています。以下、主要な遺構について説明します。
郡庁院の中央やや北側に位置します。3時期の変遷があり、いずれも東西(桁行)5間×南北(梁行)3間の東西に長い建物跡です。古い方から建物1A→B→C建物跡とします。建物1ABはほぼ同位置で建て替えられていますが、建物1C建物跡はSB50AB建物跡より東西の規模を小さくして建て替えられています。建物の規模は、建物1AB建物跡は東西18.0m、南北7.2mで、柱と柱の間隔は東西が3.6m(12尺)、南北が2.4m(8尺)です。建物1C建物跡は東西15.0m、南北7.2mで、柱と柱の間隔は東西が3.0m(10尺)、南北が2.4m(8尺)です。柱穴(柱を据える穴)はいずれの建物も一辺1.7m前後のほぼ正方形です。柱は抜き取られています。柱穴の周辺には、正殿を建てる際の足場穴と考えられる小さな柱穴が建物の内側と外側に対になるように並んでいます。
また、正殿付近にはこげ茶色の旧表土の上に盛土がわずかに認められることから、正殿は基壇と呼ばれる周辺より一段高い壇の上に建っていたと考えられますが、本来の基壇の規模等は不明です。
なお、実務官衙域の北側、東側にあるSB27・SB36建物跡(昭和63年度調査)が掘立柱建物跡→礎石建物跡になっていることや、正殿の周辺にも礎石が見られることなどから、正殿は建物1A→B→Cの後、建物1D(礎石建物跡)に建て替えられたと推定されていますが、今回は確認できませんでした。
正殿から約11m南に位置します。東西(桁行)3間×南北(梁行)1間の東西に長い建物跡です。建物の規模は、東西16.4m、南北2.4mで、柱と柱の間隔は東西が2.7m(9尺)です。柱穴は一辺約40cmの正方形を基調としています。
正殿の南東に位置します。建物4A→Bとやや柱の位置をずらして建て替えられたものと考えられます。建物4A・Bとも南北(桁行)9間×東西(梁行)2間の南北に細長い建物跡です。建物の規模は、建物4A建物跡は東西6.0m、南北26.0mで柱と柱の間隔は東西・南北とも2.5~3.0mです。建物4B建物跡は東西6.0m、南北28.0mで、柱と柱の間隔は東西・南北とも3.0mです。柱穴は建物4A・Bとも約25~40cmの正方形を基調としています。
正殿の南西に位置します。両者は重複はありませんが、前述した建物4A・Bと対になる建物と考えられることから、建物4A→Bに対応して建物5A→Bと建て替えられたものと推定されます。建物の規模もそれぞれ建物4A・Bとほぼ同様です。
以前から予想されていた区画施設南辺の土塁状の高まりがとぎれるところで南門(八脚門)を発見しました。3時期の変遷があり、古い方から南門A→B→Cとします。南門ABはほぼ同位置で建て替えられていますが、南門Cは南門ABより規模を小さくして建て替えられています。なお、南門Cは後世の削平により扉が取り付く2つの柱穴(一般的には構造上、他の柱穴より建物の重さがかからないので浅く掘られている)が確認できなかったものと思われます。
南門の規模は、南門A・Bは東西8.1m、南北5.2mで、柱と柱の間隔は東西、南北とも2.7m(9尺)です。南門Cは東西5.4m、南北4.2mで、柱と柱の間隔は東西が1.8m(6尺)、南北が2.1m(7尺)です。柱は抜き取られています。
発見した位置や柱穴の規模から、南門A・Bのいずれかの段階に郡庁院を区画していた塀跡(一本柱塀)と思われます。建て替えは認められませんでした。柱は抜き取られています。
南門や塀跡の周辺に見られ、西側の穴の方が深い傾向にあります。いずれも穴を掘った後、あまり時間を置かずに埋め戻されています。これらの作業は南門を建てる前に行われてますが、南門や塀跡をさけるように穴を掘っていることから計画的なものであったと推定できます。採った土の具体的な使い道は不明ですが、地形的に低い東側の盛土や、整地などに使用したことが考えられます。また、土採り穴は南門より古いものですが、土採り穴の底面付近からおおよそ9世紀以降につくられた土器の破片(ロクロ土師器)が出土していることから、南門は平安時代(9世紀以降)に建てられたことがわかります。
今回発見した遺構は、直接の重複がないことや年代がわかる土器等が出土していないため、各遺構の年代や変遷について確定的なことは言えませんが、それぞれの遺構の特徴や位置関係などから郡庁院内の建物の構成について、以前に正殿周辺で発見した建物も含めて考えてみたいと思います。
発見した遺構は、主に柱穴の特徴からつぎの2つに大別できます。
まず、[1]の柱穴の大きさが一辺1m以上の正方形をしている建物跡は、郡庁院を構成する主要な建物と、それを取り囲む区画施設と考えられます。いずれも3時期の変遷が認められ(赤→青→黄の順番)、3時期目の建物跡(黄色の建物)がやや小さくなる特徴があります。このため正殿:建物1、建物2、南門は同時期に存在した建物で、正殿に合わせて赤→青→黄の順番で建て替えられたものと考えられます。なお、建物2は位置的に脇殿の可能性が考えられますが、規模等が不明のため、今後の調査で性格等を明らかにしたいと思います。
次に、[2]の柱穴の大きさが直径50cm以下の円形または正方形をしている建物跡は、いずれも正殿と南門の間に位置する建物跡です。正殿と南門の中心を結ぶライン(中軸線)の上、または中軸線を挟みほぼ対称の位置にあるため、[1]の建物が建っていた時期に存在した建物と思われますが、正殿などに比べ柱穴が小さいことなどから、郡庁院を構成する主要な建物ではなく、一時的に付属した建物跡と推定されます。なお、建物4A・Bと建物5A・Bは位置関係から対になる建物跡と考えられますが、〔建物3〕と〔建物4A・B、建物5A・B〕の新旧関係は不明で、現段階ではこれらの建物跡の性格等についても確定的なことは言えません。
また、郡庁院を取り囲む区画施設については、以前に東側の区画施設の調査を行った際に一本柱塀→土塁→材木塀の変遷を確認していますが、今回の調査では南門(八脚門)に付く塀跡(一本柱塀・1時期)を発見しただけです。今後、東側以外の区画施設についても調査が必要と思われます。
最後に、正殿、南門等の年代について、今回発見した遺構の中で最も古いものは南門付近の土採り穴ですが、前述したように土採り穴の底面から9世紀以降の土器が出土していることから、南門および正殿などの建物跡などは9世紀以降に建てられたものと考えられ、これまでの見解と同様です。存続期間については具体的にわかる遺物等が出土しなかったため、現時点ではこれまでの調査結果のとおり10世紀前半と考えておきます。
今回、実務官衙域郡庁院の中心的な建物である正殿などの主要な建物や、これらに一時的に付くと思われる建物跡、郡庁院を取り囲む塀跡や南門などを発見しました。これは郡庁院内の建物の構成などを考える上で大変重要な調査成果と思います。
一方、建物の組み合わせや、区画施設の変遷、そして正殿建物1D(礎石建物跡)の存在が不明確であるなどの課題も見えてきました。これらについては来年度以降の調査で明らかにしていきたいと考えています。
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