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王城寺原補償工事事務所では,王城寺原演習場周辺障害防止対策事業の用水対策(用水不足に対応するため施設の整備を行う)として機能回復(耐用年数を超過し機能が低下した施設の回復を行う)工事を行っています。
ではまず初めに荒川堰用水路の歴史から触れていきたいと思います。
なぜ荒川堰用水路は造られることになったのか
戦国時代末期,米沢に本拠を持つ伊達政宗は,福島県会津地方,宮城県南部領有をしました。全盛期は石高140万石ほどでしたが,豊臣政権の奥州仕置により72万石に厳封されてしまいました。葛西大崎一揆の平定により,30万石の増加があったものの,岩出山入城の頃は,さらに領地を没収され,最終的に58万石となりました。家臣団はそのまま抱えていくものと思われ新田開発による石高の回復は伊達藩における悲願でありました。そこで伊達一門,伊達村隆は1632年,野谷地を開田すべく,除から針十文字まで,約10kmに及ぶ堰を築きました。大衡村の針というところは,南大村集会所から西に向かい国道4号線手前付近で現在「針薬師堂」があるところです。そののち,1645年に志田郡の村々からこの伊達村隆の用水路を志田郡まで延長して欲しいという要望が出されました。特に,松山の伊達藩奉行(家老のような要職)茂庭周防が強力に推し進めました。しかし,これでは荒川(花川)の水量が不足してしまいます。色麻では異議を唱えられるような有力な者がいなかったため,反対意見は出ませんでしたが,明らかに花川下流の四釜村一円の用水不足が懸念されたのです。そこで考え出されたのが,小野田村の鹿原から鳴瀬川の水を汲み上げ,月崎・高根と潜穴を作り,そのまま長谷川に落とし,そこからさらに保野川を経由して荒川(花川)に流入させるというものでした。この計画は伊達藩の直轄工事として進められることとなりました。工事は,正保3(1643)年に着工し,明暦元(1655)年に竣工しました。
荒川堰用水路の現在の延長は34.173kmに及びます。
現在(R4年度)は整備から長い年月が経過し水路の目地の破損や漏水が発生し,水路機能が低下していることから機能回復として新たな水路の入替えや,パネルによる水路表面の補修を行っています。
今年度(R4年度)の荒川堰用水路ではパネルを貼る工事を行っています。では,実際にどのようなものを使っているか簡単に紹介したいと思います。
まず初めにパネルは工場で作られてきます。パネルの材質についてですが,樹脂モルタルをFRPという強化プラスチックで挟んだものになります。
1.はパネルを正面から見たものになります。
2.は断面になります。厚さは10mmになっています。
〔パネルの特徴〕
耐久性・耐食性にも優れていて,FRP製ですので錆,腐食の心配もありません。
コンクリート製品に比べて,耐摩耗性に優れているため,土砂等による摩耗の心配も少なく,いつまでも滑らかな表面を保ちます。また施工実績によると耐用年数は40年以上となっています。
パネルは約20kg/平方メートルとコンクリート板に比べてとても軽量であることから,材料の運搬も施工も大きな重機を使用せずに施工が可能です。
パネルの表面は平滑で水理的に優れていまので,水の流れがとてもスムーズになります。
〔工事の施工方法〕
1.水路洗浄工
既設水路内壁の汚れや苔等を除去した後,高圧ジェット式洗浄機で洗浄します。
2.パネル板取付工
金属拡張式アンカーでパネル板を固定します。
3.目地工
パネル板とパネル板の隙間を埋める目的で目地材を塗布します。
4.裏込材注入工
既設用水路とパネル板の隙間を解消をする目的で裏込材を注入します。
5.パネル上部目地工
既設用水路とパネル板の上部に目地材を塗布し,仕上げます。
これが,施工の一連の流れになります。
以上で荒川堰用水路工事の紹介を終わります。
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