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宮城県教育委員会
平成15年3月30日
平成12年11月5日、東北旧石器文化研究所藤村新一副理事長による築館町上高森遺跡等での旧石器遺跡発掘ねつ造事件が発覚した。県教育委員会は学校教育や生涯学習活動などに及ぼす影響に配慮して早速教育次長を委員長とする「上高森遺跡に関する問題検討委員会」を設置し対応にあたった。そして、県教育委員会が主体となって発掘調査を実施し藤村氏がそれに関わった中峯C遺跡、馬場壇A遺跡、高森遺跡の3遺跡(いずれも今回旧石器時代としては扱わないこととした遺跡)を対象とした内部調査を行い、記録類等による調査では、いずれの遺跡においても藤村氏による作為が考えられないような状況で出土した石器があるとする調査結果を公表した。また、依頼に基づき平成13年1月12日に日本考古学協会にこのことを回答した。
平成13年10月には藤村氏による42遺跡での発掘ねつ造の告白が発表され、各地の検証発掘でも次々とねつ造の報告がなされるようになった。宮城県内でも平成13年秋に宮城県考古学会等による上高森遺跡の検証発掘、平成14年春に日本考古学協会等による史跡座散乱木遺跡の検証発掘が行われ、いずれの遺跡でも前・中期旧石器時代についてはすべてねつ造されたものと判断された。また、平成14年5月には日本考古学協会の前・中期旧石器問題調査研究特別委員会から検証結果の中間報告が公表され、藤村氏関与遺跡のうち検証発掘や石器検証が行われた30遺跡(県内10遺跡)はすべてねつ造の可能性が高く、今後前・中期旧石器時代の資料として扱うことは不可能であるとされた。また、藤村氏によるねつ造がかなり早い時期から広範囲にわたって行われていたことも明らかにされた。
こうした状況の変化を踏まえ、県教育委員会では藤村氏が係わった遺跡が所在する17市町村と藤村氏関与遺跡の取扱いについての連絡会議を開き対応を協議した。その結果、藤村氏が遺跡発見や現地踏査、発掘調査などに関与した県内のすべての遺跡について、県教育委員会が石器検証および遺跡の現地調査などを実施して、旧石器時代遺跡としての取扱いを決定することとなった。そのため「上高森遺跡に関する問題検討委員会」に文化財保護課、東北歴史博物館の職員で構成する「石器検証部会」を設置し、平成14年9月から藤村氏関与遺跡の石器検証および遺跡の現地調査等を実施した。石器検証作業が終了した平成15年3月3日には、日本考古学協会、宮城県考古学会との合同検討会を東北歴史博物館で開催し、検証方法と調査結果の確認を行い客観性の確保に努めた。
以下は藤村氏関与遺跡についての検証調査結果とそれを踏まえた宮城県教育委員会としての遺跡の取扱いについてまとめたものである。
【上高森遺跡に関する問題検討委員会】(平成12年11月6日設置:名簿は平成14年度)
<石器検証部会>(平成14年9月20日設置)
【合同検討会出席者】(平成15年3月3日開催)
<日本考古学協会>
<宮城県考古学会>
<宮城県教育委員会>
宮城県内における旧石器時代の212遺跡のうち、藤村氏関与遺跡は148遺跡(図1・表1)である。宮城県教育委員会では、これらすべての遺跡を対象として遺跡の検証調査および遺跡の取扱いについての検討を行った。148遺跡のうちでこれまでに発掘調査が行われたのは23遺跡である。発掘調査遺跡のうちの13遺跡については、日本考古学協会、宮城県考古学会、東北大学埋蔵文化財調査研究センター、仙台市教育委員会、多賀城市教育委員会がそれぞれ石器検証あるいは検証発掘を行い、その結果を取りまとめている(5.他機関による検証調査参照)。
表2は、藤村氏が遺跡の発見、その後の踏査、発掘調査のいずれかにおいて関与した旧石器時代148遺跡の発見年および発掘調査の主体者・調査年を示したものである。また、表3は、表2をもとに遺跡の発見及び発掘調査時における藤村氏の関与の有無を整理したものである。
遺跡発見の経緯を調べてみると、148遺跡のうち発見に藤村氏および藤村氏が所属した石器文化談話会が関わっていない遺跡は25遺跡のみであった。これらの中に藤村氏が踏査を始めた1973年(註1)より前に発見されている旧石器時代遺跡が14遺跡(北馬場壇・大森西・城山A・成田山・安沢・大山庵・木通沢・丸山・村山・西天王山・三太郎山・新堤上・大久保・座散乱木遺跡)あることが判明した。
また、これまでに発掘調査が行われた23遺跡の中で藤村氏が発掘調査に全く参加していない遺跡は、名生館官衙・薬莱山No.8・薬莱山No.17・薬莱原No.15・大原A(註2)および山田上ノ台(2次)・富沢(27層)の計7遺跡であった。
註1.日本考古学協会編 2002.5 『前・中期旧石器問題調査研究特別委員会報告(2)』
註2.大原A遺跡は、1999・2000年に発掘調査が行われ、縄文時代草創期の遺物と時期不明のTピットが発見されたが、旧石器は出
土しなかった。 色麻町教育委員会 2001.3 『大原A遺跡』宮城県色麻町文化財調査報告書第2集。
石器検証に係る作業は、平成14年9月20日~平成15年3月11日の間、東北歴史博物館浮島収蔵庫において計25回にわたって行った。
148遺跡のうち、前述した藤村氏が遺跡踏査を開始する1973年より前にすでに旧石器時代の遺跡として発見されており、遺跡発見時点ではねつ造が考えられない14遺跡、資料の所在が確認できなかった23遺跡、および他機関によって検証が行われた13遺跡のうちすべての石器検証が完了している9遺跡(座散乱木遺跡は1972年以前発見遺跡と重複)を検証対象から除外したため(表4)、最終的には103遺跡に関わる資料を対象に石器検証を行った(表5)。
これらの資料は、東北歴史博物館、関係市町村教育委員会、東北旧石器文化研究所もしくは藤村氏個人によって所蔵・保管されていた1973年以降の発掘資料、地層断面採取(抜き取り)資料、表採資料などである。観察資料の総数は1,372点(発掘資料:561点、地層断面採取資料:659点、表採資料など:152点)である。
石器の検証にあたっては、平成14年5月に日本考古学協会および宮城県考古学会から提示された石器表面の痕跡や変化等を観察する方法を採用した(註3)。石器の観察項目は、1.鉄分、2.付着土、3.キズ(ガジリ)、4.摩滅、5.風化、6.二重パティナ、7.押圧剥離、8.被熱痕、9.備考(マンガン等の付着物)の9項目である。石器の観察には主にルーペ(10倍程度)を使用し、必要に応じて実体顕微鏡(7倍~70倍)も用いた。以下に石器観察の凡例を示しておく。
石器観察凡例
石器の観察は前述の9項目にわたるが、不自然な石器か否かを判断する際には、鉄分L2や黒色土の付着、キズ・ガジリの有無、それらの比率などの分析が有効であることが確認されている(註4)。そこで、これらの3項目に着目してその観察結果を集計した。また、3項目のうちいずれかが観察される石器を集計し、その割合を算出した。表5は、表採資料を除く発掘資料および地層断面採取資料1,220点についてそれぞれの観察結果を示したものである。以下、発掘資料と地層断面採取資料に分けて観察結果の概要と評価を記す。
<発掘調査資料>
発掘調査によって出土した11遺跡の石器について、不自然な痕跡をもつ石器の割合をそれぞれ見ていくと以下のような結果が得られた。
この結果をみると、名生館官衙遺跡、薬莱山No.8遺跡、薬莱山No.17遺跡の3遺跡については、不自然な痕跡のある石器の割合が0%であり、これらは本来その遺跡に埋蔵されていた石器として間違いないものと考えられる。
長原上遺跡Aトレンチの資料も0%であるが、これはその後の調査で所属時期が縄文時代の可能性が高いことが判明している(註5)。
小泉東山遺跡上層は13%と不自然な痕跡のある石器の割合が比較的小さく、遺跡本来の石器が含まれている可能性は残るが、ねつ造の可能性も否定できない。
薬莱原No.15遺跡の場合は不自然な痕跡のある石器の割合が48%で、発掘調査に藤村氏が関与していないことから、遺跡本来の石器である可能性は残るが、すべてが耕作土層からの出土資料(註6)であることから、積極的な評価はできない。
これら以外の遺跡については、不自然な痕跡のある石器の割合が60%以上と高率であることから、それらの遺跡本来の石器である可能性は殆どないと考えられる。
<地層断面採取資料>
各遺跡の地層断面などから抜き取られた石器は、それぞれ点数が少ないものが大半であるが、観察結果は以下のようであった。
不自然な痕跡のある石器の割合が比較的少ない遺跡は、ごふく沢遺跡(22%:5/23)、薬莱山No.2遺跡(23%:3/13)、宮城平遺跡(28%:7/25)、薬莱原No.15遺跡(33%:1/3)の4遺跡である。これらの遺跡では遺跡本来の石器が含まれている可能性は残るが、いずれの場合も点数が少ないため、積極的な評価は困難と言わざるを得ない。
これら以外の遺跡では不自然な痕跡のある石器の割合が50%を超え、大半の遺跡が80%~100%と高率であることから、遺跡本来の石器である可能性は殆どないと考えられる。
以上により、今回対象とした103遺跡のうち、石器検証から確実にその遺跡本来の石器と考えられるのは、名生館官衙遺跡、薬莱山No.8遺跡、薬莱山No.17遺跡の3遺跡の資料のみと判断される。なお前述したように、これら3遺跡の発掘調査には藤村氏は全く関与していない。
註3.日本考古学協会編 2002.5 『前・中期旧石器問題調査研究特別委員会報告 (2)』
旧石器発掘「ねつ造」問題特別委員会(宮城県考古学会) 2002.5「旧石器発掘「ねつ造」問題特別委員会2001年度活動報告」
『宮城考古学』第4号
註4.註3の文献。(宮城県教育委員会 1991 「薬莱山麓遺跡群」『合戦原遺跡ほか』宮城県文化財調査報告書(第143集)
註5.2002年の大和町教育委員会の発掘調査では、Aトレンチと同層位と見られる黄褐色シルト層から石鏃を含むチップの集中地点が発見されている。
註6.薬莱原No.15遺跡は、1990年に宮城県教育委員会が薬莱山周辺を分布調査した際に発見し、その後確認調査を行ったが、石器はいずれも耕作土層
出土である。
遺跡の現地調査は平成14年12月3日から平成15年1月10日までの間に、関係町村教育委員会の職員と共に計5回にわたって行った。現地調査は最終的に遺跡の取扱いを決める際に遺跡の存否が問題となる旧石器時代単独の40遺跡のうち、以下の7町村35遺跡について実施した(表6)。
第1回:小野田町(薬莱山周辺:9遺跡)
第2回:岩出山町(9遺跡)
第3回:色麻町(3遺跡) 大衡村(2遺跡)
第4回:大和町(5遺跡) 富谷町(4遺跡)
第5回:利府町(3遺跡)
その結果は、次のとおりである。
現地調査の結果、いずれにおいても旧石器時代の遺跡であることは確認できなかった。このうち、10遺跡(後楽B・宮の沢・長原上・薬莱山No.1・薬莱山No.27・除・大原B・岩出山牧場西・新堤上・安養寺B)では縄文時代以降の遺物が認められることから、旧石器時代以外の時代の遺跡とすることができる。他の25遺跡については、現地調査からは遺跡であるかどうかも不明である。
表7は、日本考古学協会、宮城県考古学会、東北大学埋蔵文化財調査研究センターおよび仙台市教育委員会、多賀城市教育委員会による藤村氏が発掘調査に関与した13遺跡の検証調査結果を取りまとめたものである。その内容を要約すると以下のようになる。
仙台市山田上ノ台遺跡については、日本考古学協会および仙台市教育委員会の石器検証で下層の石器(中期旧石器)は本来の資料としては疑義が著しいとされたが、仙台市教育委員会により検証のための第3次調査(平成14年10月~12月)が実施され、上層で確実な後期旧石器が多数発見されている。
仙台市富沢遺跡についても、日本考古学協会および仙台市教育委員会による石器検証が行われ、25・26層の石器は本来の地層に包含されていた資料とすることはできないが、27層出土石器については疑わしい資料が全くないことが確認されている。
岩出山町座散乱木遺跡については、日本考古学協会による石器検証や検証発掘(平成14年4月~6月)が実施され、第1次~3次の発掘資料は疑義が濃厚で意識的に埋め込まれたものと判断されたが、検証発掘で第5~6層から出土した6点の石器は、後期旧石器時代ないしは縄文時代草創期のものであることから、後期旧石器時代の遺跡である可能性があるとされている。
東北大学埋蔵文化財調査研究センターによって石器検証が行われた仙台市青葉山E遺跡の後期資料(3層下部~4層上面)については、藤村氏の関与は想定しがたいものの、石器群の学術的価値については保留せざるを得ないとされた。
仙台市教育委員会による石器検証が行われた仙台市北前遺跡(後期)・住吉遺跡(後期)についても、後期旧石器時代の遺跡の可能性はあるが断定できないとの結果であった。
これらに対して、築館町上高森遺跡については日本考古学協会や宮城県考古学会等による石器検証と検証発掘(平成13年10月~11月)によって、遺跡の発見段階から前期旧石器時代の遺跡として全面的にねつ造され続けたものとの判断が出された。
上記以外の遺跡についても、日本考古学協会による石器検証が行われた大和町中峯C遺跡・古川市馬場壇A遺跡・築館町高森遺跡、東北大学埋蔵文化財調査研究センターによる石器検証が行われた仙台市青葉山B遺跡、多賀城市教育委員会による石器検証が行われた多賀城市志引遺跡・同柏木遺跡は、いずれも発掘資料として不自然で、全体として学術資料としては使えず、旧石器として積極的に評価することはできないとされている。
以上により、他機関による検証調査結果から確実に旧石器時代と認められるのは、仙台市の山田上ノ台遺跡と富沢遺跡の後期旧石器のみであった。
藤村関与遺跡についての検証調査結果をまとめると以下のようになる。
今回の検証調査の結果を踏まえた、県教育委員会としての藤村氏関与遺跡の取扱いについては以下のとおりである(表8)。
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