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昨年の美術館講座からタイトルを継承し、その「Part2」を開催します。前回に引き続き、作者の手を離れたあとの美術品の動きがテーマです。とりわけ、国境と文化の垣根を越えて美術品が移動する場合には、そこに多種多様な反響を引き起こします。美術作家はもとより、収集家や画商、学者や評論家、さらには一般観衆をも巻き込んで、広範な社会現象にまで展開することも少なくありません。美術と社会の間のダイナミックな関係について理解を深める意味から、興味深い4つのトピックを新たに選んで構成しました。
美術館講座 2011年3月
《第2回(3月12日)以降の講座は来年度以降に延期となります》
講師:榊原 悟(群馬県立女子大学教授)
奈良時代まで遡れば、屏風は貴重な舶来調度品でした。降って室町時代前半ともなると、一転して日本製屏風が外交の表舞台に立つようになります。足利将軍(日本国王)から中国(明)皇帝への進物として屏風が重要視されたからです。以来屏風は外交の必需品となり、天正遣欧使節の少年たちも、これを携えてローマへと向かいました。江戸時代を通した李氏朝鮮との善隣外交や、幕末の西欧諸国との修交までを範囲として、対外的に果たした屏風の役割と制作の背景、絵画としての特色について概観します。
《四季花鳥図屏風》(部分)
伝狩野永徳筆
白鶴美術館蔵
講師:庄司 淳一(宮城県美術館学芸員)
1933年(昭和8)3月、「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」が帝国議会で可決成立します。その目的は、折からの経済不況と円安のために頻りとなった古美術品の海外流出に、法の網をかけることにありました。実質的な禁輸措置の断行です。《吉備大臣入唐絵巻》(平安時代末期作)が人知れずアメリカに渡り、ボストン美術館の所蔵品となっていた事実の発覚が、そのきっかけであったと言われています。一連の出来事の流れをたどりながら、そこに関わった人物群像や法律制定の得失といったトピックを交えてお話しします。
《吉備大臣入唐絵巻》(部分)
ボストン美術館蔵
《延期となります》
講師:林 道郎(上智大学教授)
ピカソの《ゲルニカ》は1937年のパリ万博会場で発表され、81年に作者の祖国へと帰還するまで、欧米諸都市をめぐる長い巡歴の旅を経てきた作品です。その移動のたびに、時の政治情勢や現地の文化環境によって実に様々の反応を引き起こしました。発表当初、ゲルニカ空爆の否定的モニュメントとして受け入れられたこの作品は、侵略戦争と大量虐殺告発の象徴として普遍化され、偶像化されるにいたります。幅広い解釈を許す作品の特質に着目して、《ゲルニカ》受容の在り方を、その流転の足跡を辿りながら考えます。
《ゲルニカ》を前に演説する
アトリー英労働党党首(ロンドン)
《延期となります》
講師:馬渕 明子(日本女子大学教授)
印象派の絵画運動と、ナンシーのガラスなど工芸分野との間に、さして交流のなかったフランスの場合とは対照的に、ウィーンのジャポニスムの特色は、絵画や版画をはじめ、建築、工芸、デザインなど、ジャンルを横断した緊密な結びつきにあります。ウィーンでは、早くから日本の美術工芸品が博物館資料として豊富に収蔵され、美術家養成のために活用されていました。こうした環境の中から、日本美術の装飾性を媒介として起こった革新について、クリムト、シーレらの絵画やウィーン工房の活動を例にお話しします。
クリムト《成就》(部分)
(ストックレ・フリーズのための下絵)
オーストリア国立工芸美術館蔵
《延期となります》
宮城県美術館アートホール
(佐藤忠良記念館地階)
電話または当館受付にて
Tel:022-221-2111
各回ごとの受講も可能ですが、できるだけ4回連続での受講をおすすめします。
3月1日(土曜日)まで
60名
各回とも90分程度
無料
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